城の象徴とその歴史
名古屋城は、織田信長が生まれた那古野城(なごやじょう)の跡地に、徳川家康が天下普請によって築城した城です。江戸時代には尾張徳川家の居城として、重要な役割を果たしました。大阪城、熊本城と並び「日本三名城」に数えられ、大天守に輝く金鯱は名古屋の象徴となっています。
現在の名古屋城
名古屋城の大小天守や本丸御殿は戦火で失われましたが、戦後に鉄筋コンクリートで復元されました。現在では名城公園の一部として整備されており、さらに木造復元計画が進行中です。この計画には、天守閣や各門の復元、庭園の保存、展示施設の整備などが含まれています。
名古屋城の歴史
戦国時代:那古野城の起源
名古屋城の歴史は、16世紀初頭に遡ります。当時、今川氏が築いた「柳ノ丸」が名古屋城の前身とされ、その後織田信秀がこの地を支配し「那古野城」と名付けました。信長も一時ここを居城としましたが、その後清洲城へ移転したため、那古野城は廃城となりました。
江戸時代:徳川家康による築城
関ヶ原の戦い後、徳川家康は尾張藩の拠点として名古屋に城を築くことを決定しました。この築城は天下普請として全国の大名が参加し、1610年に開始されました。特に石垣工事では加藤清正が中心的な役割を果たしました。
1612年に天守が完成し、1615年には本丸御殿が完成しました。その後、清須越しによる町の移転で名古屋城下町が形成され、城は尾張藩の中心地として機能しました。
近代:名古屋城の変遷
明治維新後、名古屋城は廃藩置県の影響で国有化されました。太平洋戦争中の名古屋大空襲により、天守や御殿の多くが焼失しましたが、一部の櫓や石垣は現存しています。
現代:復元と保存への取り組み
現在、名古屋市は木造復元計画を推進し、文化遺産としての価値を高めています。天守閣の木造復元だけでなく、本丸御殿や二の丸庭園の整備、さらには観光資源としての活用も計画されています。
名古屋城を訪れる際の見どころ
1. 天守閣
名古屋城の天守閣は復元された外観が見事で、城全体の象徴です。特に金鯱が輝く姿は必見です。
2. 本丸御殿
武家風書院造の本丸御殿は、日本建築の美しさを堪能できるスポットです。歴史と芸術が融合した空間を楽しめます。
3. 名城公園
名古屋城周辺には名城公園が広がり、四季折々の自然と城の調和を楽しむことができます。
構造
名古屋城は、その設計と構造が非常に計算され尽くしており、防御と美観を兼ね備えた城郭です。
立地
名古屋城は熱田台地の西北端に位置し、濃尾平野を一望できる地勢の良さが特徴です。築城以前、この台地の西面と北面は切り立った崖であり、崖下は低湿地で自然の防御力を提供していました。また、台地の西端に沿って掘削された堀川は、物資の輸送や城下町の西の守りとして重要な役割を果たしました。
縄張
名古屋城の縄張は、直線的で角が直角な長方形の城壁が特徴です。曲輪(くるわ)の配置は、中心の本丸を囲む形で二之丸、西之丸、御深井丸、塩蔵構、搦手馬出が配されています。これらをさらに三之丸が覆い、その外側を広大な空堀と水堀が守っています。
また、総構えと呼ばれる城全体を囲む郭も計画されていましたが、大坂夏の陣後に普請が中止されました。
本丸
名古屋城の中心である本丸は、防御と美しさを兼ね備えた建造物です。
本丸の構造
本丸には北西隅に天守があり、他の3つの隅部には隅櫓が設けられています。また、多聞櫓が本丸を囲む形で配置されていました。南には南御門(表門)、東には東御門(搦手門)、北には不明(あかず)御門という3つの門がありました。
現在では南御門のみが現存しており、不明御門は戦災で失われました。本丸の周囲には、空堀を利用して放牧された鹿が観光客を楽しませています。
隅櫓の特徴
隅櫓は2層3階建てで、それぞれが異なる意匠を持ち、見た目の美しさを重視した設計となっています。南東の辰巳隅櫓(たつみすみやぐら)と南西の未申隅櫓(ひつじさるすみやぐら)が現存していますが、北東の丑寅隅櫓(うしとらすみやぐら)は戦災で失われました。
天守
名古屋城の象徴である天守は、その規模と美しさで知られています。
大天守の構造
大天守は連結式層塔型で、5層5階、地下1階から成る壮大な建築物です。総高55.6メートルで、江戸時代を通して現存した天守としては最も高いものでした。その内部は大京間畳が敷かれ、約1759畳分の広さがありました。
金鯱
名古屋城の大天守の屋根には金鯱(きんのしゃちほこ)が設置されており、権力の象徴とされていました。この金鯱は多くの観光客にとって名古屋城の象徴とも言える存在です。
耐震設計
名古屋城の大天守は、耐震性も考慮して設計されています。通し柱と管柱を使い分けた構造は、地震への耐性を高める工夫がされています。また、屋根は軽量で耐久性のある銅瓦が使用され、建築当時の技術の粋が集められたものでした。
名古屋城の見どころ
城内にはさまざまな見どころがあり、特に「二之丸」「西之丸」「御深井丸」といった区域にはそれぞれの独自の歴史的背景や特徴があります。
二之丸
二之丸は、当初藩主の居住地として使われていましたが、後に将軍の御座所や藩主の住居、藩庁機能を兼ねる場所となりました。1618年(元和4年)に平岩親吉の屋敷を改修して「二之丸御殿」が建設され、以後「御城」と称されました。
二之丸の建築構造と配置
本丸の南東に位置する二之丸は、南御門と東御門の馬出しに接し、その面積は広大で、本丸・西之丸・御深井丸を合わせた面積に匹敵します。北東、南西、南東には隅櫓(L字型)、南辺中央には太鼓櫓がありました。さらに、二之丸庭園の景観を楽しむための亭閣「逐涼閣」「迎涼閣」も設置されていました。
二之丸庭園の魅力
二之丸庭園は藩主専用の庭園として設計され、その規模は城郭内の庭園としては前代未聞でした。初期は中国風庭園でしたが、後に純和風回遊式庭園へと変貌しました。現在はその一部が復元され、訪れる人々に当時の雰囲気を伝えています。
二之丸の復元計画
現在、二之丸の復元計画が進行中で、愛知県体育館の移転後に二之丸御殿や馬場、弓道場などの建物を再現する計画が立てられています。この復元計画は、写真や平面図などの史料を基に進められており、2026年のアジア競技大会までの整備が目指されています。
西之丸
西之丸は名古屋城の大手筋に位置し、南側に榎多御門がありました。この区域は特に防御の要として機能し、多くの櫓や米蔵が配置されていました。
西之丸の歴史と建築物
西之丸には6棟の米蔵が建てられ、食糧基地としての性格を持っていましたが、明治時代にほとんどの建築物が取り壊されました。現在は名古屋城総合事務所や天然記念物のカヤの木があります。また、「西の丸御蔵城宝館」が近年公開され、展示収蔵施設として活用されています。
御深井丸
御深井丸は本丸の北西に位置し、後衛を担う郭として設計されました。当初は4棟の隅櫓と多聞櫓を全周に建造する計画でしたが、元和偃武により工事が中断され、一部が土塀として残されました。
御深井丸の特徴と現存建築物
御深井丸には2棟の櫓が存在し、特に西北隅櫓(清洲櫓)は3層3階で、1611年に清須城天守を移築したものと伝えられています。この櫓は現在も現存しており、名古屋城の歴史を物語る貴重な建築物です。
御深井丸のその他の史跡
御深井丸には、明治初期に建てられた旧日本陸軍の弾薬庫「乃木倉庫」も現存しています。この倉庫は名古屋市内最古の煉瓦造建築とされ、歴史的価値が高い建物です。
名古屋城の金鯱
金鯱の由来と歴史
1612年(慶長17年)、名古屋城天守が竣工した際に金鯱が取り付けられました。当時、金鯱は一対で、純金215.3キログラムが使用され、高さは約2.74メートルに達していました。
改鋳と純度の変化
江戸時代、財政難により1730年(享保15年)、1827年(文政10年)、1846年(弘化3年)の3回にわたり金鯱の金板が改鋳されました。その結果、純金の含有量が徐々に減少し、光沢が失われてしまいました。この変化を隠すために金鯱には金網が設置され、盗難防止や鳥避けの目的も兼ねていました。
戦後の復元と現在の金鯱
名古屋城の金鯱は1945年(昭和20年)の名古屋大空襲で焼失しましたが、その後復元されました。現在の金鯱は、日本国内に数えるほどしかいない鎚金師によって再現されました。一対の金鯱には88キログラムの金が使用されており、雄の高さは2.62メートル、雌は2.57メートルとなっています。
名古屋城の盗難事件
金鯱の盗難とその影響
名古屋城の金鯱は、江戸時代から明治時代、昭和時代にかけて複数回盗難事件に巻き込まれました。特に明治以降の4件の盗難事件では、いずれも犯人が金鱗を鋳潰し売却しようとしたところで逮捕されています。
主な盗難事件
- 1871年(明治4年):献上中に鱗3枚が盗難。犯人は銃殺刑。
- 1876年(明治9年):東京博物館保管中に盗難。犯人は懲役10年。
- 1937年(昭和12年):名古屋市建築局技師が金鱗58枚の盗難を発見。犯人は懲役10年。
名古屋城周辺の自然環境
お堀の自然と生態系
名古屋城のお堀は、水鳥の生息地として知られています。毎年、カモ類やサギ類など20種類以上の野鳥が観察されています。特にお堀の北東部に広がる葦原は、潜行性の野鳥の越冬地として重要な役割を果たしています。
お堀電車
名古屋城の外堀では、1911年(明治44年)から昭和時代後期まで「お堀電車」が運行されていました。この路線は瀬戸電気鉄道が敷設し、堀川の水運と市内交通を結ぶ重要な役割を果たしていました。現在は廃止されていますが、一部の遺構が残っています。
名古屋城周辺の観光施設
金シャチ横丁
金シャチ横丁は、名古屋城の城下町の雰囲気を再現した観光施設です。2018年にオープンし、伝統的な名古屋めしを提供する飲食店や土産物店が並びます。
義直ゾーン
初代藩主徳川義直の名を冠したエリアで、伝統的な名古屋めしのお店が集まっています。以下の店舗が人気です。
- 山本屋総本家(味噌煮込みうどん)
- 鳥開総本家(名古屋コーチン親子丼)
- ひつまぶし名古屋備長
宗春ゾーン
第7代藩主徳川宗春の名を冠したエリアで、新しい食文化を提供する店舗が並びます。台湾まぜそばの「フジヤマ55」やビストロ「那古野」などが人気です。
名古屋城の歴史と文化財
第二次世界大戦前の姿
かつて名古屋城には、旧国宝24棟を含む多くの建造物が存在していました。しかし、1945年(昭和20年)5月14日、太平洋戦争中の空襲により、大小天守を含むほとんどの建物が焼失しました。この悲劇によって多くの貴重な文化財が失われました。
現存する遺構
戦災を免れた尾張藩時代の建物として、本丸辰巳隅櫓、本丸未申隅櫓、本丸南二之門、旧二之丸東鉄門二之門(二之丸東二之門跡に移築)、二之丸西鉄門二之門、御深井丸戌亥隅櫓の6棟が現存しています。これらはすべて国の重要文化財に指定されており、名古屋城の歴史的価値を伝え続けています。
現存する門の特徴
名古屋城に現存する門3か所は、かつて櫓門(一之門、内門)と高麗門(二之門、外門)の二重構えで設計されていました。しかし、現在は高麗門のみが残存しています。
特別史跡の指定
名古屋城跡は、1932年(昭和7年)12月12日に国の史跡に指定され、その後1952年(昭和27年)3月29日に特別史跡に指定されました。指定範囲には本丸、西之丸、御深井丸の区域や周囲の堀や土塁が含まれていますが、二之丸の内側や三之丸の一部は指定対象外となっています。
追加指定の経緯と課題
1977年(昭和52年)、文化財保護審議会は二之丸の内側や三之丸北東の土塁を特別史跡に追加指定するよう答申しました。しかし、これらの区域に特別史跡の保存活用とは無関係の施設が存在するため、正式な追加指定は見送られています。
名勝としての二之丸庭園
名古屋城二之丸庭園は、1953年(昭和28年)にその一部が国の名勝に指定されました。その後、2018年(平成30年)には追加指定が行われ、庭園全体が名勝として認められることとなりました。
重要文化財としての現存建物
名古屋城に現存する以下の建造物は、1930年(昭和5年)に国宝に指定され、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行後に重要文化財となりました。
- 西南隅櫓(本丸未申隅櫓)
- 東南隅櫓(本丸辰巳隅櫓)
- 西北隅櫓(御深井丸戌亥隅櫓)
- 表二之門(本丸南二之門)
また、1975年(昭和50年)には以下の2棟が追加で重要文化財に指定されました。
- 二之丸大手二之門(二之丸西鉄門二之門)
- 旧二之丸東二之門(二之丸東鉄門二之門)
戦災で焼失した文化財
戦災で失われた名古屋城の文化財の中には、以下のような貴重な建物が含まれていました。
- 大天守、小天守
- 東北隅櫓(本丸丑寅隅櫓)
- 本丸御殿(玄関、大廊下、表書院など12棟)
旧本丸御殿障壁画
戦前の名古屋城本丸御殿には、狩野派の絵師による障壁画や天井画が数多く存在しました。空襲前に一部の襖絵などが避難されましたが、壁貼付絵など移動が困難なものは建物と共に焼失しました。現在、焼失を免れた襖絵などは重要文化財として指定されています。
障壁画の特色
旧本丸御殿の障壁画は、建物の用途や格式に応じて技法や画題が異なり、当時の建築や美術の様式を物語る貴重な資料となっています。
名古屋城は、歴史的遺構や文化財の価値が高く、日本の歴史を知る上で欠かせない存在です。保存と活用が進む中で、未来の世代にもその価値を伝えていくことが重要です。
まとめ
名古屋城は、戦国時代から現代に至るまでの日本の歴史を物語る重要な文化財です。その雄大な姿はもちろん、復元と保存活動を通じて新たな価値が創出されています。訪れる際には、歴史や文化を感じながら、壮麗な城とその周辺の美しい景観をぜひ堪能してください。