昭和塾堂は、愛知県名古屋市千種区城山町に位置する昭和戦前期の教育施設です。この建物は、城山八幡宮の境内にあり、その所在地はかつて尾張国の末森城の二の丸に相当します。 設立当時は愛知県の青年向け社会教育施設として重要な役割を果たしました。建設から現在に至るまで、教育、軍事、行政など多岐にわたる用途で利用されてきました。
昭和塾堂は、愛知県が青年の社会教育を目的として建設した施設です。当時の県財政は厳しく、建設計画には反対意見も多くありました。しかし、費用の一部を寄付で賄う条件付きで予算案が県議会で可決されました。総費用16万円のうち、4万円は寄付金によって集められました。
建設作業には、勤労奉仕として延べ1081人の青年団員が動員されました。こうした活動を通じて、地域社会全体で施設の完成に貢献した歴史があります。
1943年(昭和18年)には、昭和塾堂は旧日本軍によって接収され、戦時中には陸軍東海軍司令部として利用されました。戦争の影響で、その用途は教育施設から軍事施設へと変わりました。
戦後、昭和塾堂はさまざまな機関で利用されました。名古屋大学医学部基礎医学系の研究施設や、愛知県教育文化研究所、千種区役所仮庁舎などとして使用され、その後は愛知学院大学大学院歯学部研究棟として活用されました。 1967年(昭和42年)には、愛知県から城山八幡宮に払い下げられ、現在に至っています。
昭和塾堂は、愛知県営繕課の設計により1928年(昭和3年)に竣工しました。施工は志水組が担当し、鉄筋コンクリート構造で建てられました。その堅固な構造とデザインは、当時の建築技術の粋を集めたものです。
昭和塾堂の建築様式については、城山八幡宮が「帝冠様式の先駆け」と主張する一方で、名古屋大学西澤研究室は「折衷様式」との見解を示しています。この議論は、建築史の観点からも興味深いものです。
昭和塾堂は現在も城山八幡宮の境内に残っており、その歴史的価値から注目されています。2017年(平成29年)には、愛知学院大学との賃貸借契約が終了し、以後は新たな用途が模索されています。
昭和塾堂へは、名古屋市営地下鉄東山線「覚王山駅」から徒歩約7分で到着します。歴史的な城山八幡宮の境内にあるため、周辺散策とあわせて訪れるのもおすすめです。
昭和塾堂は、昭和戦前期の教育施設として建設され、戦時中や戦後のさまざまな用途を経て現在に至ります。その歴史や建築的特徴は、地域史や建築史を語るうえで欠かせない存在です。名古屋市千種区を訪れる際には、ぜひこの歴史的建造物をご覧ください。