末森城は、愛知県名古屋市千種区城山町(旧・尾張国愛知郡鳴海荘末森村)に位置していた日本の城です。縁起の良い名から「末盛城」とも表記されることがありました。
末森城は、標高43メートルの丘の上に築かれた平山城で、東西約180メートル、南北約150メートルの規模を誇りました。城は地形を生かして作られ、幅10〜16メートルの空堀や、珍しい「三日月堀」と称される丸馬出の構造を備えていたと伝えられています。
現在でも深さ7メートルほどの空堀跡など、遺構が多く残されており、当時の姿をしのぶことができます。
天文17年(1548年)、織田信秀によって東山丘陵の末端に築城されました。この城は、三河国松平氏や駿河国今川氏の侵攻を防ぐための拠点として、また守山城とともに東方防御線を形成する目的で建設されました。
信秀は、居城だった古渡城を放棄し、新たに築かれた末森城を居城としました。
信秀の死後、末森城はその実弟・織田信勝に譲られました。しかし信勝は、弘治2年(1556年)に織田信長に叛旗を翻したものの敗北。末森城に籠城しましたが、信長の母・土田御前の介入により城は陥落を免れました。
信勝が謀反を再び企て、永禄元年(1558年)に清須城で謀殺されたことで末森城は廃城となりました。しかしその後、小牧・長久手の戦い(1584年)では、織田信雄が一時的に末森城を使用したとされています。
天文22年(1553年)、信勝は白山比咩神社から分霊を招き、城内に白山社を祀りました。廃城後もこの神社は近隣住民によって守られ、明治時代には近隣の神社と合祀されて城山八幡宮となりました。
現在、城山八幡宮内には末森城址の石碑が建てられています。
かつて城の西北山麓には信秀の霊廟がありましたが、現在は名古屋市千種区四谷通の桃巌寺内に移され、信勝とともに供養されています。
本丸跡地は城山八幡宮の神域となっており、二の丸跡地には愛知県が建設した旧・昭和塾堂が建っていました。建物は後に城山八幡宮に払い下げられましたが、現在は使用されていません。
また、周辺地域には「末盛通」など、城の名を受け継ぐ地名が残っています。
名古屋市営地下鉄東山線「覚王山駅」下車、徒歩約5分で到着します。
末森城址内に位置し、歴史的な背景を感じさせる神社です。
織田信秀と信勝の霊廟が移設された名古屋市千種区の寺院です。