丸根砦は、愛知県名古屋市緑区に位置し、戦国時代に織田信長が築いた砦の一つです。織田信長が今川義元との戦いに備えて築いたこの砦は、現在、史跡として保存されています。
丸根砦は、永禄2年(1559年)に織田信長によって築かれました。この砦は、桶狭間の戦いの前哨戦で重要な役割を果たしました。鷲津砦や善照寺砦とともに、大高城を囲む形で配置され、国の史跡にも指定されています。
砦は、鷲津砦の東南400メートル、大高城の東約800メートルに位置しています。鳴海から延びる丘陵の先端に築かれ、東西36メートル、南北28メートルの規模で、幅3.6メートルの外堀に囲まれていました。
永禄3年5月19日(1560年6月12日)、桶狭間の戦いの前哨戦として、織田軍の佐久間盛重が丸根砦に立てこもりました。しかし、松平元康(後の徳川家康)率いる今川軍に攻撃され、砦は陥落。織田軍は壊滅的な敗北を喫しました。その後、この地域での戦略的価値が失われたため、砦は放棄されました。
丸根砦の跡地は、現在では住宅地に囲まれていますが、砦があった丘の上は史跡として整備されています。記念碑や戦殉難烈士の碑が建てられており、曲輪や堀の一部も良好な状態で残されています。
丸根砦へは、JR東海道本線「大高駅」の東側からアクセス可能です。また、名古屋市営バスの「丸根」バス停から徒歩数分で到達できます。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国知多郡桶狭間で行われた戦いで、織田信長が今川義元を討ち取ったことで知られる歴史的な合戦です。
2万5千人の大軍を率いて尾張に侵攻した今川義元に対し、織田信長が約3千人の軍勢で立ち向かいました。信長は奇襲作戦を採用し、義元の本陣を攻撃。今川義元を討ち取ることで、織田家が尾張を統一する重要な契機となりました。
尾張国では、織田信長の父である織田信秀が今川氏との対立を深め、両家は東尾張と西三河を巡って争いました。信秀の死後、信長は内紛を乗り越え、鳴海城や大高城など尾張東南部での今川軍の進出を阻止するため、いくつかの砦を築きました。
永禄3年5月12日、今川義元は駿府を出陣し、尾張へ侵攻。大高城を拠点とするために兵糧を送り込みました。一方、織田信長は丸根砦や鷲津砦などを活用し、今川軍に対抗しました。
永禄3年5月19日、信長は奇襲を決行。今川義元が桶狭間に構えていた本陣を攻撃し、義元を討ち取ることに成功しました。この戦いで織田軍は少数ながらも戦略的な勝利を収めました。
桶狭間の戦いは、今川家の衰退を招き、織田信長が畿内進出を果たすきっかけとなりました。また、松平元康(徳川家康)が独立を果たし、織田家との同盟を結んだことで、日本全体の戦国時代の勢力図にも大きな変化をもたらしました。
現在、愛知県豊明市には「桶狭間古戦場伝説地」として、今川義元の墓や合戦の舞台を示す史跡が残されています。訪れることで戦国時代の歴史に触れることができます。