大森寺は、愛知県名古屋市守山区弁天が丘に位置する浄土宗の寺院で、山号は「興旧山」です。寺院の歴史は尾張藩2代藩主である徳川光友による創建に遡ります。
大森寺は寛永14年(1637年)、徳川光友が生母である乾の方(歓喜院)の菩提を弔うため、江戸小石川の伝通院内に創建されました。その後、寛文元年(1661年)に乾の方の出身地である名古屋市大森に移転され、現在の地に至ります。
寺院の裏山には歓喜院の墓があり、彼女の追憶がこの地に息づいています。また、中門に掲げられた山号の額は徳川光友自身の筆によるものです。
寺院内の明照殿は、二十世住職であり東海中学校初代校長でもあった武田芳淳によって、建中寺塔頭正信院の本堂を移築したものです。これを旧校舎として使用した後、再び大森寺に移築されました。
しかし、明治8年(1875年)の火災により創建以来の建物は失われました。その後、平成26年(2014年)に本堂が再建され、今日に至ります。
徳川光友(とくがわ みつとも)は、江戸時代前期の尾張藩2代藩主であり、数々の文化や藩政に貢献した人物です。
徳川光友は寛永2年(1625年)7月29日、初代藩主・徳川義直の長男として名古屋に生まれました。母は側室である歓喜院(吉田甚兵衛の姉)です。
光友は幼少期より徳川将軍家や周囲の武家社会において高い教育を受け、寛永10年(1633年)には従兄である徳川家光から偏諱を与えられ「光義」と名乗りました。彼は父・義直の死去後、尾張藩の家督を継ぎました。
光友は藩主として寺社奉行制度の導入や評定所の設置など、藩政の基礎を築きました。また、防火制度や林業制度の確立、軍備の強化にも取り組みました。
文化面でも茶道や書道に優れ、特に剣術では柳生厳包(柳生連也斎)から学び、新陰流第6世を継承しました。また、書道においては後西天皇や近衛信尋と共に「三筆」の一人として称されました。
光友は藩の財政基盤を強化するため、藩札の発行や財政改革を進めましたが、寺社の創建や修造、名古屋城下町の再建などの支出が重なり、財政難に苦しむこともありました。それでも彼は天和元年(1681年)の財政改革で藩収入の安定化を図りました。
光友は元禄6年(1693年)に家督を嫡子の綱誠に譲り、隠居生活に入りました。元禄13年(1700年)10月16日に76歳で亡くなり、その功績は尾張藩の歴史に刻まれています。
光友の墓所は大阪府柏原市の安福寺にあり、彼の生涯と功績を象徴する場所として大切にされています。
大森寺は単なる寺院以上の存在であり、徳川家の歴史や文化、そして地域社会の絆を象徴する場です。その由緒ある建築や歴史を訪れることで、尾張藩や江戸時代の魅力を深く知ることができます。