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照遠寺

(しょうおんじ)

照遠寺は愛知県名古屋市東区東桜二丁目にある日蓮宗の寺院です。歴史的背景や建築、文化的価値が豊かなこの寺院は、地域の人々に親しまれています。

概要

照遠寺の山号は妙長山です。別名として御堂照遠寺とも呼ばれます。この寺院は、旧本山を京都の大本山本圀寺(六条門流)とし、莚師法縁(隆源会)に属しています。

境内には、明治24年(1891年)の濃尾地震と大正12年(1923年)の関東大震災の供養碑が設けられ、災害の歴史を伝えています。

歴史

起源と創建

照遠寺の起源は、現在の稲沢市である下津村に妙長尼が建立した草庵に遡ります。応仁の乱で妙長尼の兄、山田幸長が京都で戦死したため、文明10年(1478年)にその子である山田長親が父の菩提供養のために法華題目堂を建立しました。この際、日縁が開山となりました。

中世から近世への発展

大永元年(1521年)には、日蓮在世中の文永10年(1273年)の銘がある祖師像が安置され、享禄4年(1531年)には久遠院日珍によって祖師堂と釈迦堂が建立されました。寺号は「青遠山妙長寺」とされました。

その後、天正11年(1583年)に織田信雄が立ち寄り、父である織田信長に因んで「妙長父寺」と改号しました。そして、天正14年(1586年)には清須城下に移転しました。

清須越しと現在地への移転

慶長15年(1610年)の清須越しにより、名古屋市東区に移転しました。この際、寺号を再び「妙長寺」に復しましたが、承応3年(1654年)に現在の「照遠寺」と改号しました。

享保18年(1733年)には尾張藩第7代藩主・徳川宗春より葵の御紋の使用が許可され、楼門や経箱などに葵紋が施されました。

近代から現代

嘉永6年(1853年)に火災が発生し、本堂や祖師堂を含む多くの建物が焼失しましたが、明治19年(1886年)には鐘楼が再建されました。しかし、明治24年(1891年)の濃尾地震や昭和34年(1959年)の伊勢湾台風などの自然災害により、建物が大破または倒壊しました。その後、修復や再建が行われています。

境内の見どころ

楼門

享保15年(1730年)に建立された楼門は、照遠寺で唯一当時のまま現存する建物です。歴史的価値が高く、当時の建築技術の粋を感じることができます。

供養碑

境内には濃尾地震と関東大震災の供養碑が設置されており、過去の災害の記憶を伝えています。訪れる人々にとって、歴史と自然の猛威を振り返る重要な場所となっています。

照遠寺の意義

照遠寺は単なる宗教施設に留まらず、地域の文化や歴史を伝える役割を果たしています。特に清須越しにより名古屋市へ移転して以来、地域住民の心の拠り所として親しまれてきました。また、災害の供養碑や楼門などを通じて、歴史的な価値を後世に伝える重要な役割を担っています。

アクセス情報

照遠寺は名古屋市東区東桜二丁目に位置し、交通の便が良い場所にあります。公共交通機関を利用して訪れることが可能で、名古屋市内の観光ルートに組み込むのもおすすめです。

まとめ

照遠寺はその歴史的背景や建築物、文化的意義によって名古屋市の重要な寺院の一つとなっています。地域の人々や観光客にとって、歴史を学び、心を静める場として愛されています。ぜひ一度訪れて、その魅力を直接感じてみてください。

Information

名称
照遠寺
(しょうおんじ)

名古屋

愛知県