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光明寺城(尾張国)

(こうみょうじじょう)

光明寺城は、愛知県一宮市光明寺字本郷屋敷に位置していた日本の城です。織田信長の家臣である神戸伯耆守(ほうきのかみ)によって築城され、その後、信長の馬廻衆である山田半兵衛が在城したと伝えられています。

光明寺城の歴史

築城と発展

光明寺城は永禄年間(1558年~1569年)の初期、具体的には1560年頃に織田信長の家臣である神戸伯耆守によって築城されました。この城は、織田家の支配地域を強化する目的で建てられたとされています。

山田半兵衛の時代

1568年、信長の馬廻衆である山田半兵衛が光明寺城に入りました。しかし、この城は長い期間使用されることなく、1569年に廃城となりました。

伯耆守の最期

神戸伯耆守は、永禄12年(1569年)に伊勢国司北畠具教父子の大河内城を攻めた際の夜戦で討死しました。このような背景から、光明寺城の歴史は短いながらも波乱に満ちたものだったといえます。

徳川家康との関わり

桶狭間の戦いと光明寺城

桶狭間の戦い(1560年)の後、織田信長と松平元康(後の徳川家康)は清洲城で攻守同盟を締結しました。この同盟の後、信長と元康は酒宴を開き、その後酔い覚ましとして光明寺城を訪れたと伝えられています。

軍法と「徳川家康」誕生

光明寺城の近くに位置する安照院光明寺は、白鳳年間に建立された1300年以上の歴史を持つ古刹です。ここには、八幡太郎義家の軍法を伝える僧侶、青井意足が住んでいました。

織田信長は、自身が平家の出身であるために得られなかった軍法を、源氏の出である松平元康に譲渡する形で紹介しました。元康は数日間光明寺に滞在し、青井意足から軍法を学びました。この際、元康は「義」または「家」の字を受け継ぐことが定められており、自らの名を「徳川家康」と改めたとされています。

光明寺城跡の見どころ

石碑とその場所

現在、光明寺城跡には記念の石碑が設置されています。この石碑は光明寺保育園から北へ約150メートルの位置にあり、地域の歴史を語る貴重な遺産となっています。

安照院光明寺

光明寺城の近くにある安照院光明寺は、その長い歴史と徳川家康に関連する伝説から、多くの観光客が訪れる場所です。参拝を通じて、戦国時代の息吹を感じることができるでしょう。

アクセス情報

光明寺城跡へは名鉄バスを利用するのが便利です。一宮駅バスターミナルから「山郷西」または「138タワーパーク」行きのバスに乗り、光明寺バス停で下車してください。バス停から城跡までは徒歩圏内です。

光明寺城の歴史的意義

光明寺城はその短い存在期間にもかかわらず、織田信長と徳川家康という日本史に名を刻む人物たちの活動の場となりました。また、徳川家康の名前の由来ともなったこの城と周辺地域は、戦国時代の歴史を知る上で欠かせない場所です。

関連情報

光明寺城跡は、歴史好きな方や戦国時代に興味のある方にとって、訪れる価値のある場所です。ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

Information

名称
光明寺城(尾張国)
(こうみょうじじょう)

尾張西部・一宮

愛知県