勝幡城は、愛知県愛西市勝幡町と稲沢市平和町にまたがる場所にかつて存在した城です。尾張国の海東郡と中島郡に位置し、織田信長の生誕地として有力視されています。現在は城の遺構は残っていませんが、城跡を示す石碑が建てられ、歴史好きの観光客が訪れるスポットとなっています。
勝幡城は、稲沢市指定史跡となっており、城跡は愛西市勝幡町と稲沢市平和町六輪字城之内にまたがる範囲にあったとされています。中心地は城之内付近と推定され、二重の堀で囲まれた館城でした。
城の規模や構造については、『勝幡村古城絵図』では「本丸は東西29間、南北43間、幅3間の方形土塁」と記され、『寛文覚書』では「東西48間・南北70間」と伝えられています。これらの記録から、勝幡城は当時の平城としては大規模であったことが伺えます。
勝幡城は、永正年間(1504年〜1521年)ごろに織田信定(またはその父・織田良信)によって築かれたとされています。織田弾正忠家は尾張国の有力な武士団の一つであり、この勝幡城を本拠地とし、経済的に豊かな津島の商業地を支配下に置いていました。
織田信定の跡を継いだ信秀が今川氏から那古野城を奪取したことで、弾正忠家の勢力は拡大しました。信秀は那古野城に移り、勝幡城には家臣である武藤雄政(武藤掃部)が城代として置かれました。
織田信長の生誕地については諸説ありますが、近年では勝幡城説が有力とされています。通説では那古野城で生まれたとされていましたが、新たな研究によると、信長の生年である天文3年(1534年)当時、父・信秀はまだ那古野城を奪っていなかった可能性が高く、勝幡城が生誕の地であると考えられています。
織田信秀の死後、弾正忠家の本拠地は清洲城に移されました。それに伴い、勝幡城は次第にその役割を失い、武藤掃部も尾張野府城へと転属されました。その後、勝幡城は衰退し、最終的には廃城となりました。
勝幡城は、天守閣を持つ近世城郭とは異なり、室町時代の館城形式を採用していました。周囲を堀で囲み、館を中心とした平城であったと考えられています。
史料によると、勝幡城の規模は以下のように記されています。
さらに、勝幡城全体の広がりは東西約205m、南北約216mとされ、二重の堀が設けられていました。
勝幡城の周囲には、三宅川・日光川・領内川といった河川が流れていました。これらの川は、江戸時代の改修により流路が変わっているため、当時の水系とは異なりますが、城の外堀としての役割も果たしていたと考えられています。特に日光川は、萩原川(足立川)を改修して作られた人工河川であり、勝幡城の周辺の水運にも影響を与えていました。
現在、勝幡城の遺構は残っておらず、城跡を示すものとして以下の2つの石碑が建てられています。
また、昭和54年(1979年)には、排水工事の際に城の櫓台にあたる部分から大きな基石が発見されました。この基石は現在、愛西市佐織支所に保管されています。
勝幡城跡は観光スポットとして整備されているわけではありませんが、歴史好きの人々が訪れる場所となっています。城跡周辺を散策しながら、織田信長ゆかりの地を巡るのも一興です。
勝幡城は、織田信長の生誕地としての可能性が高く、織田弾正忠家の経済的な基盤を築いた場所でもあります。城のすぐそばに流れる河川と豊かな商業地・津島を抑えたことで、織田家は財力を蓄え、やがて戦国時代の覇者への道を歩むことになりました。
現在では遺構は失われていますが、歴史に興味のある方にとっては重要な場所であり、信長のルーツを辿る旅の一環として訪れる価値のあるスポットです。