愛知県知多郡美浜町に位置する野間大坊は、真言宗豊山派に属する格式ある寺院です。正式名称は鶴林山 無量寿院 大御堂寺(かくりんざん むりょうじゅいん おおみどうじ)といい、本尊として阿弥陀如来を祀っています。
この寺院は、源義朝の終焉の地として知られており、境内には義朝の墓が残されています。歴史と伝説が息づくこの寺は、訪れる人々に深い感慨を与える場所となっています。
『大御堂寺縁起』によれば、野間大坊の起源は天武天皇の時代に遡り、修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)によって創建されたと伝えられています。さらに、聖武天皇の時代には、行基が中興したとされています。その後、弘法大師空海がこの地を訪れ、一千座の護摩を焚き、人々の幸福を祈願したとも言われています。
室町時代の天文3年(1534年)に記された再興勧進帳には、白河天皇の勅願寺として承暦年間(1077年~1081年)に「大御堂寺」と命名されたとの記述があります。しかし、創建の正確な時期については不明な点も多く、伝承に基づく部分が大きいと考えられます。
野間大坊が特に注目される理由の一つが、源義朝との深い関わりです。『吾妻鏡』によると、義朝の墓はかつて荒廃していましたが、尾張守として赴任していた平康頼(ひらのやすより)が小堂を建立し、田三十町を寄進し、僧侶を配置して供養を行いました。
その功績を知った義朝の子・源頼朝は、平康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任命しました。頼朝自身も建久元年(1190年)に上洛の途中で野間大坊を訪れ、立派に整えられた父の墓に感動し、さらに寄進を行いました。これにより、寺の伽藍が整備され、頼朝の守本尊である地蔵菩薩像が安置されることとなりました。
その後、野間大坊は豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受け、さらに発展を遂げました。現在も、頼朝が造営させたと伝えられる大門や、鎌倉幕府五代将軍・藤原頼嗣が寄進した梵鐘(1250年銘)が現存しており、歴史的価値の高い遺構が残されています。梵鐘は国の重要文化財に指定されており、見どころの一つとなっています。
平治元年(1159年)、平治の乱で敗れた源義朝は、鎌田政清とともに東海道を下り、家臣・長田忠致(おさだただむね)のもとに身を寄せました。しかし、忠致・景致親子は平家からの恩賞を狙い、入浴中の義朝を討ち取ったのです。このとき、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念の叫びを残したとされています。
この逸話にちなんで、野間大坊の義朝廟には、参拝者が供えた多くの木刀が積まれています。また、義朝の首を洗ったとされる「血の池」も境内にあり、国に異変があると池の水が赤く染まるという伝説が伝えられています。
野間大坊には、義朝の墓をはじめとする貴重な文化財が数多く残されています。特に、鎌倉時代の快慶作とされる来迎阿弥陀像は、その価値が高く評価されています。さらに、絹本着色義朝最期図・頼朝先考供養図など、歴史的な絵画も保存されています。
愛知県知多郡美浜町大字野間字東畠ヶ50番地
名鉄知多新線「野間駅」から徒歩約8分
野間大坊は、源義朝の歴史とともに歩んできた格式ある寺院です。境内には義朝の墓や歴史的な建造物が残されており、歴史好きな方にとっては見逃せないスポットです。また、知多四国霊場の札所として巡礼者にも親しまれています。
美浜町の観光と併せて、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。