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坂部城

(さかべじょう)

坂部城は、かつて尾張国知多郡阿久比(現在の愛知県知多郡阿久比町大字卯坂字栗之木谷32番地)に存在した歴史ある城です。現在では、阿久比町指定文化財(史跡)として「坂部城跡」としてその名残をとどめています。この城は、徳川家康の母・於大の方との深い関わりでも知られており、その歴史的価値と感動的なエピソードが訪れる人々の心を打ちます。

城の概要

坂部城は知多半島の北部、阿久比川沿いに築かれた平城です。阿久比川は阿久比谷と呼ばれる平地を形成し、その西岸の台地に坂部集落が広がり、その末端部に位置する城山と呼ばれる場所に築城されました。築城主は久松定益であり、当時は坂部城だけでなく、阿久比城とも呼ばれていました。

歴史的資料としては『張州府誌』『尾張名所図会』『尾張志』などにその存在が記録されています。特に『尾張志』には「坂部村にあり、其跡東西四十間南北五十間英比の城ともいふ。久松佐渡守菅原俊勝の居城なり」と記されており、その規模と重要性が伺えます。本丸の東側には武家屋敷が整然と並び、当時の城下町としての風情が感じられる様子が描かれています。

坂部城と於大の方の感動的な物語

坂部城の歴史において特に有名な逸話が、徳川家康の母・於大の方に関するものです。於大の方は天文17年(1547年)に久松俊勝と再婚し、刈谷城近くの椎の木屋敷から坂部城に移り住みました。彼女はここから息子である家康に手紙や贈り物を送り続け、その母の愛情は絶えることがありませんでした。

そして永禄3年(1560年)、悲しい別れを経験した母子は坂部城で感動の再会を果たしました。この出来事は、家康の生涯においても大きな影響を与えたとされています。母と子の絆が再び結ばれたこの城は、単なる戦略拠点以上の意味を持つ場所となりました。

坂部城の衰退と落城

しかし、坂部城の栄光も長くは続きませんでした。俊勝の長男である久松信俊は、織田信長に「謀反の志あり」と疑われ、天正5年(1577年)に大阪の四天王寺で自害するという悲劇に見舞われます。その後、坂部城は信長の家臣である佐久間信盛の軍勢に攻められ、落城とともに炎上し、その歴史に幕を下ろしました。

現在の坂部城跡

城跡の保存と発掘調査

かつての城山には、かつてマツの大木が群生していましたが、マツクイムシの被害により枯死してしまいました。1983年(昭和58年)、隣接地に阿久比町立図書館が建設されることとなり、その過程で空堀の一部が発見され、1982年(昭和57年)に坂部城調査団による発掘調査が実施されました。

1980年(昭和55年)に刊行された『日本城郭大系』によると、城の規模は東西72m、南北90mとされていましたが、発掘調査の結果、実際の規模は東西36m、南北54mであったことが判明しました。現在でも城址の西側と南側には空堀の遺構が良好に残存しており、当時の防御構造を偲ばせます。

文化財としての価値

1988年(昭和63年)7月、坂部城跡は阿久比町指定文化財(史跡)に認定されました。1994年(平成6年)時点では、阿久比町における唯一の史跡として、その歴史的価値が高く評価されています。現在、坂部城跡は城山公園として整備され、地域住民や観光客に親しまれています。周辺は住宅地として開発されていますが、城跡の歴史と文化は今なお息づいています。

久松家の菩提寺・洞雲院

坂部城跡の北約200mの場所には、久松家の菩提寺である洞雲院があります。ここには、築城主である久松定益や、於大の方と再婚した久松俊勝の墓があります。さらに、於大の方の遺髪墓もあり、その歴史的価値とともに、訪れる人々に深い感慨を与えます。

坂部城跡の見どころとアクセス情報

見どころ

坂部城跡には、歴史的価値の高い見どころが数多く存在します。特に、以下のポイントは訪れる価値があります。

アクセス情報

坂部城跡へのアクセスは非常に便利です。以下の情報を参考にしてください。

まとめ

坂部城は、戦国時代の歴史とともに、徳川家康の母・於大の方との感動的な物語が残る歴史的名所です。現在は城跡としてその名残をとどめ、史跡としても高く評価されています。阿久比町に訪れる際には、ぜひこの歴史深い場所を訪れ、その魅力を感じてみてはいかがでしょうか。静かな公園として整備された城跡は、散策や歴史探訪に最適なスポットとなっています。

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名称
坂部城
(さかべじょう)

知多半島・常滑

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