望洲楼は、愛知県半田市亀崎町に佇む由緒ある料亭で、合資会社望洲楼によって運営されています。料理旅館として紹介されることもあり、亀崎町においては最も古い料理旅館として知られています。その歴史と格式は知多半島でも屈指であり、長年にわたり政財界人や文化人、文人墨客に愛されてきました。
衣浦湾を望む高台に位置する望洲楼は、単なる飲食の場にとどまらず、地域の歴史・文化・景観を今に伝える生きた文化遺産とも言える存在です。
近世の尾張国知多郡亀崎町は、知多半島で醸された酒を江戸へ運ぶ海運業の拠点として栄えた港町でした。望洲楼の創業は安政2年(1855年)、4代目成田新左衛門によって「中口屋」という屋号の料理屋兼宿屋として始まります。
創業当初、建物は畑であった丘の上に設けられ、その眺望の良さと風情ある座敷は大変な評判を呼びました。開業前に京都を訪れた際、書家貫名菘翁から「望洲楼」という名を授かり、亀崎の湊を望む立地にちなみ、この名が正式な屋号となりました。
1878年(明治11年)には建物が新築され、この建物は現在「成田家の本宅」として、半田市景観重要建造物に指定されています。
明治時代初期には、現在の場所に建物が整えられ、望洲楼は名実ともに亀崎を代表する高級料亭・宿泊施設となりました。1887年に描かれた『愛知商売繁盛絵図』には、「御料理・御宿 亀崎港 望洲楼」として掲載され、展望風呂や洋館、離れ座敷などが描かれています。
1886年には福澤諭吉が訪れたことが新聞に報じられ、1898年には小説家田山花袋、民俗学者柳田國男が宿泊するなど、数多くの文化人がこの地を訪れました。また、日本画家の竹内栖鳳や海軍元師の西郷従道なども名を連ね、望洲楼が知多半島随一の社交場であったことがうかがえます。
さらに、明治20年に行われた国内初の陸海軍大演習の際には、明治天皇・皇后の行幸に関連して食事を提供する重要な役割も担いました。
大正時代、亀崎は「月の名所」として全国に知られるようになります。大正天皇即位に際し、日本画家・野口小蘋が描いた屏風には、神前神社から眺めた亀崎の月が題材として選ばれました。
また、歌人である黒田清綱が詠んだ和歌「萬代も かわらぬかげを 亀崎の 波に浮かべて 月照りにけり」は、望洲楼の「月の間」から眺める情景と深く結びついています。以後、望洲楼は春扇楼や古扇楼と並び、地域の文化と社交の中心的存在となりました。
1934年(昭和9年)には、敷地最上部に100畳の大広間が完成し、望洲楼はさらなる発展を遂げます。1937年には鳥瞰図絵師・吉田初三郎によって「月の名所亀崎望洲楼鳥瞰図」が制作され、壮大な建物配置と景観が描かれました。
しかし太平洋戦争中、望洲楼は国に強制買収され、中島飛行機の幹部や軍関係者の宿舎として利用されます。この時期には洋館が取り壊され、敷地内には堅牢な防空壕が設けられました。防空壕は現在も残され、戦争の記憶を静かに伝えています。
戦後、建物は再び成田家の手に戻り、望洲楼は料亭として営業を再開しました。現在も毎年5月に開催される亀崎潮干祭の際には、予約制で特別な弁当を提供するなど、地域行事とも深く関わっています。
2015年には建物が半田市景観重要建造物に指定され、2017年には「百年料亭ネットワーク」にも加盟。愛知県内では唯一の加盟店として、伝統ある料亭文化の継承に努めています。
望洲楼の敷地は高低差約25メートルの斜面に広がり、階段や渡り廊下によって複数の座敷が結ばれています。料理を運ぶための木製リフトが設置されている点も、歴史ある建物ならではの工夫です。
1965年(昭和40年)には、日本庭園の巨匠重森三玲によって枯山水庭園が作庭され、現在も訪れる人々の目を楽しませています。令和5年にはバリアフリー対応の特別室も新設され、誰もが安心して利用できる空間へと進化しています。
望洲楼は、料理の美味しさだけでなく、歴史・文化・景観を五感で味わえる特別な場所です。亀崎の港町文化、月の名所としての風情、そして人々の記憶を大切に守り続ける姿勢は、訪れる人に深い感動を与えてくれます。
知多半島を訪れる際には、ぜひ望洲楼に足を運び、時を超えて受け継がれてきた日本の料亭文化に触れてみてはいかがでしょうか。