愛知県 > 知多半島・常滑 > 知多木綿

知多木綿

(ちた もめん)

知多木綿は、愛知県の知多半島で生産される綿織物の一種で、特に晒木綿(さらしもめん)として知られています。手拭地や絞り地などに用いられ、その品質の高さで評価されています。

知多木綿は、「あいちの伝統的工芸品及び郷土伝統工芸品」に指定されており、また、1979年12月7日には「知多木綿の紡織習俗」が国の無形民俗文化財に選択されました。さらに、「知多木綿生産用具及び木綿問屋関係資料」が愛知県の有形民俗文化財にも指定されています。

知多木綿の歴史

日本における綿栽培の始まり

日本での綿栽培の歴史は古く、平安時代初期の延暦18年(799年)には、インド人が三河国幡豆郡に漂着し、綿の種子と栽培方法を伝えたとされています。これが日本における綿業の始まりとされています。

応永年間(1349年-1427年)には、朝鮮や明(中国)から大量の綿布が輸入されるとともに、木綿織りの技術も日本へ伝わりました。知多半島で初めて綿の種子を植えたのは、三河武士の平野萬右衛門であり、彼は知多郡大野村の木綿問屋「六兵衛」の祖とされています。

江戸時代の知多木綿

知多半島での木綿生産が記録に登場するのは江戸時代初期の慶長年間(1596年-1615年)で、この頃には駅伝制を利用した江戸への出荷が始まったといわれています。特に佐布里村が中心的な木綿産地でした。

江戸時代中期の天明年間(1781年-1789年)には、岡田村の中島七右衛門らが木綿に晒の技術を導入し、白く美しい「知多晒」が誕生しました。文化・文政年間(1804年-1829年)には、知多晒は伊勢晒(松阪晒)とは別のブランドとして確立し、その名は全国に広まりました。

明治時代以降の発展と衰退

明治中期には、岡田村の竹内虎王が動力織機を発明し、知多木綿の生産効率は大きく向上しました。しかし、その後の技術革新により、豊田佐吉の自動織機が主流となり、竹内式力織機は衰退しました。

昭和初期には、愛知県の知多、三重県の松阪、大阪府の泉州が「日本の三大綿織物生産地」と呼ばれるほどの隆盛を誇りましたが、戦後はアジア諸国に生産の場が移り、知多木綿の生産量は減少していきました。

知多木綿の展示体験施設

手織りの里 木綿蔵ちた

愛知県知多市岡田町には、知多木綿の展示体験施設「手織りの里 木綿蔵ちた」があり、1995年(平成7年)7月7日に開館しました。ここでは、知多木綿の手織り体験ができるほか、伝統的な織機や生産工程について学ぶことができます。

2014年(平成26年)4月25日には「木綿蔵ちた(旧竹内虎王商店木綿蔵)」として登録有形文化財に指定され、知多木綿の歴史を後世に伝える貴重な施設となっています。

木綿蔵の歴史

木綿工場としての役割

1898年(明治31年)、岡田村の竹内虎王は「竹内式力織機」を発明し、1901年(明治34年)には竹内木綿工場を創業しました。この木綿蔵は、明治後期から大正初期にかけて竹内虎王商店の倉庫として建設されたと考えられています。

昭和初期には、知多(愛知)、松阪(三重)、泉州(大阪)が日本三大綿織物生産地とされ、竹内虎王商店もその一翼を担いました。しかし、1987年(昭和62年)頃には織布工場としての役割を終え、閉鎖されました。

展示体験施設への転換

1994年(平成6年)、隣接する丸登織布の従業員宿舎が取り壊されると、地元住民による木綿蔵の保存運動が始まりました。その結果、1995年(平成7年)に「手織りの里 木綿蔵ちた」として生まれ変わりました。

2014年(平成26年)には愛知県登録有形文化財に指定され、2017年(平成29年)には岡田地区にある旧中七木綿本店の建物群も登録有形文化財に加わりました。

建築の特徴

「木綿蔵ちた」は、土蔵造の2階建てで、屋根は切妻造・桟瓦葺(きりづまづくり・さんがわらぶき)となっています。基礎は石積みで湿気を防ぐために高床構造が採用されています。

外壁は漆喰塗りで、美しい白壁が特徴的です。建物内には出入口が2か所あり、1階と2階ともに広々とした一室構造になっています。

まとめ

知多木綿は、日本の伝統工芸として長い歴史を誇ります。江戸時代から全国に広まり、明治・大正時代には日本を代表する綿織物の一つとして発展しました。現在は「手織りの里 木綿蔵ちた」によって、その伝統が守られ、訪れる人々に歴史や技術が伝えられています。

愛知県を訪れる際には、知多木綿の魅力を体験し、その歴史に触れてみてはいかがでしょうか。

Information

名称
知多木綿
(ちた もめん)

知多半島・常滑

愛知県