岩崎城は、現在の愛知県日進市岩崎町に位置する、室町時代末から戦国時代にかけて築かれた平山城です。尾張国と三河国の国境付近にあたるこの地は、古くから交通の要衝として知られ、戦国時代には両国を行き交う軍勢や物資の流れを押さえる重要な拠点でした。
岩崎城はその立地ゆえに、織田氏と松平(徳川)氏という有力大名の勢力争いの舞台となり、幾度も戦火にさらされてきました。現在は「岩崎城址公園」として整備され、歴史を伝える遺構や展示施設が点在する、市民や観光客に親しまれる史跡となっています。
岩崎城の正確な築城年は明らかになっていませんが、享禄年間(1528~1531年)、尾張国の有力武将である織田信秀(織田信長の父)によって築かれたと考えられています。信秀は、尾張国内の支配を固めるとともに、三河方面への進出を視野に入れてこの地に城を築きました。
岩崎は尾張と三河を結ぶ街道が交差する場所にあり、城下には市が立ち、交易も盛んに行われていました。その名残として、現在も周辺には「市場」という地名が残っています。軍事的・経済的の両面において価値の高い土地であったことが、岩崎城が争奪の対象となった大きな理由です。
享禄2年(1529年)、三河国岡崎城主であった松平清康(徳川家康の祖父)が、兵およそ7000を率いて岩崎城を攻め落としました。当時、岩崎城は織田信秀の属将である荒川頼宗が守っていましたが、松平軍の攻勢の前に落城したと伝えられています。
しかし、その直後に起こった「森山崩れ」と呼ばれる事件で清康が急死すると、松平氏の勢力は動揺し、岩崎城から退くことになります。この混乱の中で、後に岩崎城主となる丹羽氏が台頭していきました。
天文7年(1538年)頃、丹羽氏清が本郷城(現在の日進市)から岩崎城に移り住んだとされています。以後、慶長5年(1600年)までの約62年間、岩崎城は丹羽氏四代の居城として維持されました。
この時代、岩崎城は中世城郭らしい構造を持つ平山城として整えられ、土塁や空堀、土橋などによって防御が固められていました。現在もこれらの遺構が比較的良好な状態で残されており、当時の城郭構造を知る貴重な手がかりとなっています。
天文20年(1551年)には、丹羽氏の一族内で起こった内紛が「横山の戦い」として伝えられています。藤島城主・丹羽氏秀が挙兵し、丹羽氏清・氏識父子と対立しました。この戦いには若き日の織田信長も介入しましたが、結果として敗北を喫したとされています。
この出来事は、戦国時代における家中争いの厳しさを物語ると同時に、岩崎城が地域政治の中心であったことを示しています。
岩崎城の歴史の中で最も重要な出来事が、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いです。この戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が天下を巡って激突した大規模な合戦でした。
当時の岩崎城は徳川方に属する丹羽氏次によって守られており、豊臣方の武将池田恒興が後方攪乱を狙ってこの地に侵攻します。激しい戦闘の末、城代であった丹羽氏重以下300余名が討ち死にしましたが、その奮戦により池田軍の進軍は阻止され、最終的に徳川方の勝利につながったと伝えられています。
この戦いで命を落とした丹羽軍将兵を慰霊するため、明治43年(1910年)に「表忠義」碑が建立されました。現在も毎年4月9日には慰霊祭が行われ、地域の人々によってその忠義と犠牲が語り継がれています。
関ヶ原の戦い後、丹羽氏次は三河国伊保(現在の豊田市保見町)に一万石の大名として転封され、慶長5年(1600年)をもって岩崎城は廃城となりました。
以後、およそ300年以上にわたり城跡は大きな整備が行われることなく、本丸跡は畑や荒地として利用されていました。しかし、その一方で中世城郭の遺構が手つかずで残されたことは、結果的に貴重な歴史的資産を後世に伝えることにつながりました。
昭和59年(1984年)、落城の日にあたる4月9日に地元住民による慰霊大祭が行われたことを契機に、岩崎城跡の保存と整備が本格化します。そして昭和62年(1987年)、本丸跡に五重構造の模擬天守(展望塔)が建設され、「岩崎城址公園」として生まれ変わりました。
現在の岩崎城は、史実に基づく復元ではなく、近世城郭を参考にした象徴的な建物ですが、郷土を愛する人々の思いが込められた地域のシンボルとして親しまれています。
白壁が美しい五重構造の展望塔からは、日進市街をはじめ、長久手・瀬戸方面、名古屋市内まで一望できます。天気の良い日には、愛・地球博記念公園(ジブリパーク)周辺も見渡すことができ、観光客に人気の眺望スポットとなっています。
日進市で受け継がれてきた四季折々の年中行事を紹介し、地域文化の豊かさを伝えています。
岩崎城の遺構解説や小牧・長久手の戦いに関する展示、甲冑のレプリカなどが並び、映像展示によって当時の様子をわかりやすく学ぶことができます。
展望室では周囲の景色を楽しめるほか、長久手の合戦や三河中入りにおける各武将の進軍ルートを示したパネル展示も設置されています。
岩崎城の歴史や出土品が展示されています。一階には常設展示室があり、日進市の歴史や文化を学ぶことができます。視覚・聴覚に配慮した展示で、過去から未来へ地域の記憶を伝えています。
園内には、櫓台や土橋跡、空堀などの遺構が残されており、戦国時代の防御構造を実際に体感することができます。特に櫓台は標高66.28メートルと城内で最も高い地点で、敵の侵入を監視する重要な役割を担っていました。
整備中に発見された6世紀の古墳を再現したものが展示されています。また、二の丸には水琴窟を備えた日本庭園があり、来園者は江戸時代の音色を楽しむことができます。
庭園内に水琴窟が設けられ、水滴の音が甕内部で反響し美しい音色を奏でる仕掛けです。この音色は琴に似ていることから名付けられました。
常滑焼の甕を用いた二種類の音色を楽しむことができます。江戸時代の人々が愛した幽玄な音色に耳を澄ませるひとときは、訪れる人の心を癒してくれます。
岩崎城は、戦国時代の尾張と三河を結ぶ戦略拠点として、日本史の重要な局面に関わってきました。丹羽氏の忠節と犠牲、小牧・長久手の戦いにおける役割は、今もなお高く評価されています。
現在では、歴史学習の場であると同時に、散策や展望を楽しめる憩いの公園として、多くの人々に親しまれています。
岩崎城は、戦国の動乱を今に伝える貴重な史跡であり、地域の誇りでもあります。遺構を巡り、展示に触れ、展望塔からの景色を楽しむことで、訪れる人は歴史の息吹を身近に感じることができるでしょう。
日進市を訪れた際には、ぜひ岩崎城址公園に足を運び、尾張と三河の歴史が交差したこの地の魅力をじっくりと味わってみてください。