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刈谷城

(かりやじょう)

刈谷城は、愛知県刈谷市にかつて存在した日本の城です。正式名称は「刈屋城」ですが、刈谷市が1950年(昭和25年)に市制施行して以降、「刈谷」と表記されるようになりました。現在、城跡は「亀城公園」として整備され、地域の歴史を伝える貴重な場所となっています。

刈谷城の概要

城の構造

刈谷城は、三河湾に面する衣ヶ浦(ころもがうら)の北端東岸に築かれた平城です。城の中心である本丸を囲むように帯曲輪が配置され、その周囲には二の丸、三の丸がありました。城の東側には大手門が設けられ、西側は自然の入り江に面していたため、堀が必要ありませんでした。

天守は存在しませんでしたが、北西と南東の角に隅櫓が建てられ、本丸の周囲は土塀で囲まれていました。また、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられ、防御を固めていました。

刈谷城の歴史

築城と発展

刈谷城は、天文2年(1533年)に水野忠政によって築かれました。築城後、忠政は本拠地を緒川から刈谷に移し、城の整備を進めました。この城に関連する重要な出来事として、徳川家康の生母である於大の方が、刈谷城から岡崎城の松平広忠に嫁いだことが挙げられます。これは後の徳川家の興隆にも関わる歴史的な出来事です。

戦国時代の攻防

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの際、刈谷城の城主であった水野信近は、今川方の武将・岡部元信の攻撃を受けました。この戦いで水野信近は討ち死にし、城は一時的に落城したと考えられています。しかし、岡部元信が撤退した後、再び水野氏の手に戻りました。

その後、水野信元は織田信長に仕えるようになり、刈谷城は織田方の拠点として機能しました。しかし、天正3年(1575年)、信元は武田方への内通を疑われ、織田信長の命を受けた徳川家康により処刑されました。この後、刈谷城は佐久間信盛の支配下に入りましたが、信盛が信長に追放されたため、水野氏の領有に戻りました。

江戸時代の刈谷城

江戸時代に入ると、刈谷城は譜代大名の居城となり、城主が頻繁に交代しました。寛永9年(1632年)には深溝松平家が入城し、その後も久松松平家、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏などの大名が城主を務めました。永享4年(1747年)からは土井氏が城主となり、明治4年(1871年)の廃藩置県まで続きました。

明治時代以降の刈谷城

明治時代に入ると、刈谷城は破却され、城域は国有化されました。その後、旧士族に払い下げられましたが、昭和11年(1936年)に刈谷町が城跡を取得し、公園として整備しました。第二次世界大戦中は軍の高射砲陣地として使用され、老松が伐採されるなど荒廃しましたが、戦後に植栽が進められ、現在では桜の名所として親しまれています。

現在の刈谷城跡

遺構

現在、刈谷城の遺構のうち、本丸および帯曲輪の一部が「亀城公園」として残っています。城の建物や石垣の大部分は失われていますが、本丸を囲む土塁や、帯曲輪東側の堀が拡幅されて池となるなど、当時の城郭の面影を感じることができます。また、妙福寺には、刈谷城の辰巳櫓が移築され現存しています。

復元整備計画

刈谷市では、城の復元整備計画が進められており、江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀などの再建が計画されています。2019年(平成31年)3月には「刈谷市歴史博物館」が開館し、今後、城の遺構復元が進められる予定です。

刈谷城復元模型と資料

刈谷市郷土資料館では、刈谷城の復元模型や絵図が展示されています。館内では、刈谷城の歴史や構造について詳しく学ぶことができるため、訪問の際にはぜひ立ち寄ってみてください。

刈谷城へのアクセス

刈谷城跡へ訪れる際の交通アクセスは以下の通りです。

電車でのアクセス
車でのアクセス

まとめ

刈谷城は、戦国時代から江戸時代にかけて歴史の舞台となった城であり、現在も城跡が残る貴重な文化財です。特に桜の季節には多くの観光客が訪れ、美しい景色を楽しむことができます。歴史好きな方や散策を楽しみたい方には、ぜひ訪れていただきたいスポットです。

Information

名称
刈谷城
(かりやじょう)

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