盛泉寺は、愛知県海部郡蟹江町に所在する真宗大谷派の寺院で、地域の人々に長く親しまれてきた由緒あるお寺です。山号は市場山(いちばさん)と称し、本尊には阿弥陀如来立像を安置しています。中世から近世にかけての信仰の広がりと、蟹江の歴史を今に伝える存在として、観光や歴史散策の際にも注目される寺院です。
盛泉寺の創建は、室町時代の明応6年(1497年)にさかのぼります。寺伝によれば、開基は本願寺第八世・蓮如上人の実子である蓮芸(れんげい)と伝えられています。当初の所在地は、現在の蟹江新田字下市場にあたる「下市場」と呼ばれる場所で、当時は地域の信仰の拠点として重要な役割を担っていました。
この地は市場が立つ交通と商業の要所でもあり、盛泉寺の山号である「市場山」は、こうした土地の歴史に由来しています。寺院と人々の暮らしが密接に結びついていたことが、この山号からも感じ取れます。
安土桃山時代の慶長年間(1596年〜1615年)、下市場一帯は火災に見舞われ、盛泉寺もその被害を受けました。これを機に、八代目住職・受念の代に、現在の蟹江町本町字川西の地へと移転します。この移転により、盛泉寺は新たな歴史を刻み始め、現在まで続く寺観の基礎が築かれました。
史料によれば、天正9年(1581年)に本願寺顕如が与えた「方便法身尊形」には、盛泉寺が当初、弥富興善寺の在家道場であったことが記されています。その後、慶長9年(1604年)には、本願寺教如による複数の真影が授与され、寺号として「盛泉寺」の名が用いられるようになったと考えられています。
江戸時代初期、盛泉寺は尾張地方における真宗大谷派の重要な拠点の一つとなりました。元和7年(1621年)に宣如から下附された「祖師聖人御影」の裏書には、「尾州海東郡蟹江郷盛泉寺」との明確な記載があり、寺院としての地位が確立していたことがわかります。
また、尾張藩が編纂した『寛文覚書』には「東門跡直参」と記されており、盛泉寺が東本願寺に直接属する格式ある寺院であったことを示しています。本末関係にあった興善寺が西本願寺へ転派した後、盛泉寺は本末関係を解消し、東本願寺の直末寺として独立した存在となりました。
盛泉寺の歴史を語るうえで欠かせないのが、名古屋別院との関係です。七代目住職・祐玄は、本山の教如上人に仕え、京都・大阪・名古屋を行き来しながら、多くの寺院建立に関わりました。名古屋には「通寺」と呼ばれる拠点を構えていましたが、これを本山に献上し、のちの名古屋別院(東別院)の基礎となったと伝えられています。
元禄4年(1691年)には、名古屋御坊の代役として宗門改めなどの重要な役割を果たし、「名古屋別院の元は盛泉寺にあり」と語り継がれるほど、宗門史において大きな足跡を残しました。
盛泉寺には、歴史的価値の高い寺宝が数多く伝えられています。中でも阿弥陀如来画像には、天正9年(1581年)に本願寺顕如が記した花押が残されており、当時の信仰の厚さを今に伝えています。また、「三朝高祖御影」や「聖徳太子御影」の裏書には、教如の花押が確認され、盛泉寺が本山と深い関係にあったことを物語っています。
境内には、長い年月を経て風格を増した庭石や庭園が残り、静かな佇まいの中に歴史の重みを感じさせます。鐘楼には十二支が刻まれた欄間が施され、細部にまで意匠が凝らされています。また、経堂や年輪を重ねた槙の木々なども見どころで、訪れる人に落ち着いた時間を与えてくれます。
盛泉寺は、単なる宗教施設にとどまらず、蟹江町の歴史と文化を今に伝える貴重な存在です。中世から近世にかけての真宗の広がり、名古屋別院との深い関係、そして静かな境内に残る歴史の痕跡は、訪れる人々に多くの学びと感動を与えてくれます。蟹江町を訪れる際には、ぜひ盛泉寺に足を運び、悠久の時を感じながら、その魅力に触れてみてはいかがでしょうか。