高月院は、愛知県豊田市にある浄土宗の寺院であり、山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺(じゃくじょうじ)と称する知恩院末寺です。本尊として阿弥陀如来を祀っており、徳川将軍家の祖・松平氏ゆかりの寺院として知られています。
高月院は、松平氏の発祥地とされる旧三河国加茂郡松平郷に位置しています。14世紀後半から15世紀末にかけて、この地域に浄土宗を広めた鎮西派寺院の一つとして知られています。隣松寺(豊田市)、信光明寺(岡崎市)、大樹寺(岡崎市)などの近隣寺院と深い関係があり、松平氏との結びつきを背景に教線を拡大しました。
特に、高月院は松平氏の菩提寺として早い段階で堂宇が整備され、その後も江戸幕府の開幕から明治維新に至るまで徳川将軍家の厚い庇護を受け続けました。このため、境内地の一部(6,024平方メートル)は国の史跡「松平氏遺跡」として指定されています。
寺伝によれば、高月院の創建は1367年(貞治6年・正平22年)で、松平郷の領主・在原信重(松平太郎左衛門尉信重)が開基とされ、見誉寛立(けんよ かんりゅう)が開山とされています。
見誉寛立は、足助氏の一族出身とされ、笠置山の戦い(1331年)の敗北後に知恩院で剃髪・授戒を受けた後、故郷に戻って高月院(当時は寂静寺)を創建したと伝えられています。
松平氏初代・松平親氏は1368年(応安元年・正平23年)に松平郷に入郷し、寛立に深く帰依し、高月院を松平氏の菩提寺としました。この際、仏法僧の三宝を信仰し、伽藍の造営や一切経蔵の設置などを行い、寺院の発展を支えました。
また、親氏は境内に観音堂を設け、観音山には金像の甲中観音を安置したと伝えられています。こうした信仰活動は、松平氏の精神的支柱としての役割を果たしました。
16世紀に入ると、松平氏第4代・松平親忠の五男である超誉存牛(ちょうよ ぞんぎゅう)が寺院の発展に大きく貢献しました。超誉は、信光明寺で得度した後、1511年(永正8年)に信光明寺の住持となり、1521年(永正18年)には知恩院の住持も務めました。
1527年(大永7年)には、母・閑照院皎月尼の菩提を弔うため、境内に「皎月院」を建立しました。このことから、高月院の実質的な開山は超誉存牛であると考えられています。
1549年(天文18年)、8歳の竹千代(後の徳川家康)は、今川氏の人質として駿府へ向かう途中で高月院を訪れ、祖先の廟を参拝しました。この際、超誉存牛から十念や説法を受け、清談を交わしたとされています。
家康がこの時に残したとされる「花月一窓」という掛け軸は、「伝家康八歳の書」として高月院に伝わっています。このエピソードは、家康が後に徳川幕府を開くに至る精神的な背景を示すものと考えられています。
江戸幕府成立後、高月院は徳川将軍家からの庇護を受け、寺領が拡大しました。幕府からの修繕や寄進が続けられ、境内の堂宇は整えられていきました。特に、家康の祖先である松平親氏・泰親の廟所は幕府の手厚い管理のもとに維持されました。
高月院の境内には、松平親氏・泰親の廟所があり、徳川将軍家の祖先を祀る霊廟として重要視されています。また、本堂や山門などの歴史的建造物が残り、静寂な雰囲気の中で歴史を感じることができます。
さらに、松平郷全体が歴史的な観光スポットとして整備されており、高月院と併せて訪れることで、松平氏と徳川家康の歴史をより深く知ることができます。
高月院の境内地の一部は、国の史跡「松平氏遺跡」として指定されており、松平氏の初期の歴史を伝える貴重な遺跡となっています。寺に伝わる古文書や書状などの文化財も多く、松平氏・徳川家康ゆかりの資料として研究されています。
高月院は、松平氏の菩提寺として創建され、徳川家康の祖先を祀る歴史的な寺院です。江戸時代には幕府の庇護を受け、現在に至るまでその歴史的価値を保ち続けています。境内には歴史を感じる見どころが多く、松平郷と併せて訪れることで、日本の歴史に触れる貴重な体験ができるでしょう。