若宮八幡宮は、愛知県岡崎市朝日町にある歴史ある神社です。この神社は、徳川家康の長男である松平信康を祀る神社として知られています。信康は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将であり、その生涯には多くの悲劇がありました。本記事では、若宮八幡宮の由緒とともに、松平信康の生涯についても詳しく紹介します。
天正7年(1579年)9月15日、岡崎城主であった松平信康は、織田信長から武田勝頼との内通を疑われ、遠江国の二俣城で自刃を命じられました。この事件の背景には、信康の母である築山殿が関与したとも言われています。
信康の首は信長の実検後に岡崎へ返還され、家康の家臣である清水万五郎が、岡崎の投村根石原(現在の岡崎市朝日町)に埋葬し、目印として松の木を植えたと伝えられています。その後、岡崎城内では怪異現象が相次いだとされ、岡崎城代の石川数正は天正8年(1580年)5月に供養塔として首塚を建立しました。この首塚を中心に、若宮八幡宮として信康が祀られるようになりました。
明治時代に入ると、若宮八幡宮は岡崎市朝日町に遷座されました。また、戦時中の1945年(昭和20年)7月20日に発生した岡崎空襲によって、社殿は焼失しました。現在の社殿は、その後の再建によるものです。
松平信康は、永禄2年(1559年)3月6日、徳川家康(当時は松平元康)の長男として駿府で誕生しました。母は今川氏の有力家臣・関口親永の娘で、今川義元の姪である築山殿です。信康は幼少期を今川家の人質として駿府で過ごしましたが、桶狭間の戦い(永禄3年・1560年)で今川義元が討たれた後、家康の元に戻されました。
永禄10年(1567年)、信康は元服し、信長の娘・徳姫と婚姻関係を結びました。これにより、徳川家と織田家の結びつきが強化されました。信康は岡崎城に住み、父・家康が浜松城へ移った後は、正式に岡崎城主となりました。
信康は数々の戦に参加し、勇猛果敢な武将として知られました。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、17歳ながら徳川軍の一翼を担い、武田軍との激戦を繰り広げました。その後も、遠江国や三河国での戦いにおいて軍功を挙げました。
しかし、天正7年(1579年)、信康の運命は大きく変わります。信康の妻である徳姫が、信康や築山殿の振る舞いについて父・織田信長に訴えたとされる「十二ヶ条の訴状」が問題となりました。これにより、信長は信康の処罰を家康に命じました。
家康は信康を庇うことができず、信康は二俣城に幽閉された後、9月15日に切腹を命じられました。享年21(満20歳没)。その首は信長のもとに届けられた後、岡崎へ返され、現在の若宮八幡宮に葬られました。
若宮八幡宮の境内には、信康の首塚が残されています。これは、信康の冥福を祈るために建てられたものであり、多くの参拝者が訪れる場所となっています。
若宮八幡宮の境内には、戦国時代の面影を感じさせる雰囲気が残っています。神社の周囲には古木が立ち並び、訪れる人々に静寂と歴史の重みを伝えています。
岡崎市内には、信康や徳川家康ゆかりの地が数多く残っています。岡崎城や大樹寺など、信康の歴史を感じることができる場所を巡るのもおすすめです。
若宮八幡宮は、松平信康を祀る神社として、岡崎市の歴史に深く根付いた場所です。信康の悲劇的な最期や、戦国時代の激動の歴史を今に伝えるこの神社は、歴史好きの方にとっても見どころの多いスポットとなっています。岡崎を訪れた際には、ぜひ若宮八幡宮を訪れ、信康の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。