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随念寺

(ずいねんじ)

徳川家康ゆかりの歴史ある寺院

随念寺は、愛知県岡崎市門前町にある浄土宗の寺院で、山号は「仏現山 善徳院」と称します。本尊は阿弥陀如来であり、戦国時代からの長い歴史を誇る由緒ある寺院です。寺の創建は1562年(永禄5年)、徳川家康によって開かれました。開山は、大樹寺十五世の黁誉魯聞(どんよろもん)上人です。

この寺は、家康の祖父である松平清康と、家康の大叔母にあたる久子(於久)の菩提を弔うために建立されました。久子は、家康が幼少の頃に母・於大の方と離別した後、彼を養育した人物でもあり、その影響力は大きかったとされています。彼女の法名「随念院」にちなんで、寺の名が「随念寺」とされました。

歴史的背景

松平清康と森山崩れ

1535年(天文4年)、家康の祖父である松平清康は、尾張を攻略しようと守山に陣を敷いていましたが、家臣の阿部正豊によって殺害されました(この事件は「森山崩れ」と呼ばれています)。清康の遺骸はこの地で荼毘に付され、墓塔が建てられました。これは「善徳院墓塔」と称されましたが、家康が生まれたのは清康の死の8年後であり、その経緯には諸説があります。

また、清康の遺骸は岡崎に運ばれる途中で損傷が激しくなったため、西尾市長縄町の観音寺近くの畑地に仮に葬られたとも伝えられています。その後、大樹寺に移されましたが、現在もその跡地には清康の祠が残っています。

家康の大叔母・久子(於久)の影響

久子は、家康の母・於大の方と生き別れた後、家康を養育しました。彼女は安祥松平家の中で唯一岡崎に残った人物であり、家康が今川家の人質となっている間、松平氏の当主代行の役割を果たしていたとする説もあります。1561年(永禄4年)、彼女は岡崎城内で亡くなり、遺言により清康の墓の隣に葬られました。

寺院の発展

江戸時代に入ると、徳川家の祖先に関わる寺社は幕府によって特別に保護され、随念寺の格式も高まりました。1610年(慶長15年)には久子の50年忌法要が行われ、その際には大乗経を一日で写経する「頓写」が催されました。

また、1612年(慶長17年)には庫裏が建設され、1619年(元和5年)には岡崎の大工・坂田弥右衛門によって本堂が再建されました。このように、随念寺は徳川家の保護を受けながら発展し、現在に至るまでその歴史的価値を維持しています。

境内の見どころ

格式高い建築

随念寺は、岡崎市中央部の丘の中腹に位置し、町中にありながらも静かな風格を持つ寺院です。2代将軍・徳川秀忠によって寄進された本堂や山門は、江戸時代の寺院建築の美しさを今に伝えています。

本堂には「鴬張りの廊下」があり、歩くと音が鳴る仕掛けになっています。また、山門は鐘楼門造の形式をとり、格式の高さを感じさせます。さらに、1612年(慶長17年)に建てられた庫裏や書院も見どころの一つです。

城郭寺院としての特徴

随念寺は単なる寺院ではなく、かつては岡崎城の防衛拠点としての役割も担っていました。そのため、東海道を見下ろす立地にあり、白壁の土塀や石段など、城郭寺院の特徴が随所に見られます。

岡崎初期の教育施設としての役割

明治時代に入ると、廃仏毀釈の影響を受けた随念寺は、本堂を守るために境内の庫裏や書院を小学校や高等学校の校舎として提供しました。これにより、岡崎市の教育発展にも大きく貢献しました。

文化財

随念寺が所蔵する多くの宝物は岡崎市の文化財に指定され、岡崎市美術博物館に委託保存されています。中でも、松平清康の肖像画や、釈迦涅槃像、十六羅漢像などは貴重な歴史資料として知られています。

アクセス

交通手段

名鉄バスを利用する場合は、「市民病院方面」の「中伝馬」停留所で下車し、北へ約300メートル進むと随念寺に到着します。

Information

名称
随念寺
(ずいねんじ)

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