長興寺は、愛知県田原市大久保町に位置する曹洞宗の由緒ある寺院です。江戸時代からほとんど姿を変えることなく受け継がれてきた伽藍と、田原藩主・戸田氏の菩提寺としての歴史をあわせ持ち、田原の精神的支柱ともいえる存在です。
境内には歴代藩主の墓所が整然と並び、また愛知県指定文化財である木造観世音菩薩立像(鉈彫観音)を有することでも広く知られています。寺域を包み込む山肌には照葉樹林が広がり、四季折々の自然が静かな境内に彩りを添えています。
長興寺は、戦国時代の国人領主・戸田氏の菩提寺として知られています。田原城を拠点に三河湾沿岸を支配した戸田氏は、この寺を精神的な拠り所とし、代々の当主やその家族の墓所を境内に営みました。そのため長興寺は、単なる宗教施設にとどまらず、田原の政治・文化史を語る上でも欠かすことのできない存在となっています。
寺伝によれば、長興寺の起源は建治元年(1275)にさかのぼります。後深草上皇の発願により、当初は天台宗の寺院「大覚寺」として創建されたと伝えられています。その後、臨済宗へと改宗しましたが、室町時代に入ると度重なる戦乱の影響を受け、寺勢は衰え、廃寺同然の状態に陥りました。
文明14年(1482)、三河渥美郡の分郡守護代であった一色政照の菩提を弔うため、田原城主・戸田宗光が尽力し、名僧・廬嶽洞都の弟子である春崗慧成を迎えて寺の再興が行われました。このとき寺は曹洞宗に改宗し、寺号を現在の長興寺と改めています。
宗光は寺領50貫文を寄進し、以後、長興寺を戸田氏の菩提寺と定めました。この決断が、長興寺のその後の繁栄と安定した寺運を支える礎となったのです。
戸田宗光の曾孫・戸田康光が今川氏によって滅ぼされると、長興寺も一時的に寺領の多くを失いました。しかし、田原城代・朝比奈元智の仲介によって永禄5年(1562)には寺領が回復され、その後は今川氏真や徳川家康からも寄進と庇護を受けました。
江戸時代に入ると、田原藩第2代藩主・戸田忠能に至るまで、歴代藩主の墓所が境内に整えられ、慶安元年(1684)には朱印地100石を拝領するなど、藩の厚い保護のもとで安定した寺院運営が続きました。
長興寺の境内には、江戸時代に建立された建造物が今も良好な状態で残されています。元禄7年(1694)建立の山門は、落ち着いた佇まいの中に風格を備え、訪れる人を静寂の世界へと導きます。
山門と本堂の間に位置する中雀門(天保2年・1831)は、左右に回廊を従える独特の構成を持ち、伽藍配置の美しさを感じさせます。本堂には本尊・釈迦牟尼仏が安置され、日々の信仰の中心となっています。
また、十王堂には十王や奪衣婆、地蔵菩薩が祀られ、死後の世界を静かに見つめる場として信仰を集めてきました。
元禄7年(1694年)に建築された立派な門で、境内の正面を飾っています。
天保2年(1831年)建立。山門と本堂の間に位置し、東西には回廊が続いています。
本尊として釈迦牟尼仏を安置しており、参拝者の心の拠り所となっています。
十王・奪衣婆・地蔵菩薩を祀るお堂で、元文5年(1740年)以前には存在していたと伝えられています。明治27年(1894年)の暴風で倒壊後、翌年に現在の場所に移築されました。
庫裏、鎮守社、収蔵庫などが整備されており、落ち着いた佇まいの中に寺の格式を感じさせます。
境内西側に広がる戸田氏墓所には、戸田宗光をはじめとする歴代当主やその妻の墓石が整然と並んでいます。一基一基が田原藩の歴史を物語り、ここを歩くだけで数百年にわたる時代の流れを実感することができます。
また、宗光の墓の近くには一色政照の墓も安置されており、長興寺が地域の歴史と深く結びついてきたことを象徴しています。
長興寺を代表する文化財が、愛知県指定文化財「木造観世音菩薩立像」です。平安時代から鎌倉時代にかけて制作されたとされるこの仏像は、桧材の一木造で、高さ約110センチ。表面に残る細かなノミ痕が特徴で、力強さと素朴さをあわせ持つ姿から「鉈彫観音」の名で親しまれています。
現在は境内の収蔵庫に大切に保管され、年に一度のみ公開されます。その限られた機会に拝観できる姿は、訪れる人の心に深い感動を残すことでしょう。
長興寺は、歴史・文化・自然の三要素が調和した、田原市を代表する観光スポットです。華やかさよりも静かな感動を味わいたい方にとって、これ以上ない場所といえるでしょう。周辺の自然とあわせて散策すれば、心身ともに癒やされる時間を過ごすことができます。
所在地:愛知県田原市大久保町字岩下8
アクセス:豊橋鉄道渥美線「三河田原駅」から豊鉄バス伊良湖本線に乗車し、「大久保」バス停下車、徒歩圏内。