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吉田神社(豊橋市)

(よしだ じんじゃ)

吉田神社は、愛知県豊橋市関屋町に位置し、古くから地域に根ざした歴史と伝統を誇る由緒ある神社です。地元では「天王社」としても親しまれ、豊橋市内の氏子に支えられながら、現在に至るまで多くの人々に敬われております。

主祭神と相殿神

吉田神社の主祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)であり、疫病除けや災厄退散の神として広く信仰されています。また、相殿には飛鳥時代の女帝である持統天皇も祀られており、両神の御神徳を仰ぎながら地域の安泰を願う信仰が受け継がれています。

神社の歴史

創建と持統上皇との関わり

吉田神社の起源は古く、大宝2年(702年)の持統上皇の「三河行幸」の際に設けられた頓宮がその始まりと伝えられています。上皇の崩御後、その地に社殿が建てられ神社とされました。江戸時代の文献『和漢三才図会』にも「天皇社祭神持統天皇」と記されており、当時から持統上皇を祀る神社として認知されていたことがわかります。

中世から近世にかけての発展

平安時代の天治元年(1124年)には、天台宗の感神院祇園社(現在の京都・八坂神社)より牛頭天王が勧請され、疫病除けのご利益をもつ神として信仰されました。その後、「牛頭天王社」「吉田天王社」「天王社」といった名でも呼ばれるようになります。

鎌倉時代には源頼朝が伊豆から鎌倉へ向かう途中、使者を立てて吉田神社を参拝させるなど、武家からの崇敬も厚く、建久年間には三河守護・安達藤九郎盛長によって社殿が造営されました。

吉田城との関係と社殿の再建

16世紀初頭の永正3年(1507年)には、吉田城築城にともない、城の守護神として吉田神社が再建されます。特に今川義元はこの神社に深く関わり、天文16年(1548年)には神輿を寄進しました。この神輿には今川義元自身の名前が記され、「天下太平、国家安泰、万民和楽、四辺帰来」といった祈念の言葉が記されています。

また、現在では豊橋名物ともなっている手筒花火は、永禄3年(1560年)に今川家の吉田城代が奉納したことが始まりとされています。神社の境内には「伝承三河伝統 手筒花火発祥之地」の碑も建立されています。

江戸時代から明治以降

江戸時代には歴代の吉田藩主によって、社殿の改築や修築が繰り返され、天保6年(1837年)には正一位の神階が授与されました。神社の祭礼は「吉田まつり」として全国的にも知られ、京都・祇園祭の影響を受けた飾鉾や獅子舞が披露されました。12頭立ての競馬も行われ、当時の祭礼の盛大さを物語る遺物として、大河内松平家の紋が入った鞍や鐙が現存しています。

明治時代に入り廃藩置県が行われると、藩の庇護を失いましたが、神仏分離令を受けて現在の「吉田神社」へと改称され、祭神も素戔嗚尊に統一されました。現在では、豊橋市内の関屋町・本町・三浦町など8つの町を氏子区域とし、町民による祭事の運営が継続されています。

豊橋祇園祭と手筒花火

豊橋祇園祭の概要

豊橋祇園祭は吉田神社の最大の祭礼であり、神輿渡御がメインイベントとなっています。祭りは三日間にわたって開催され、前々夜に手筒花火、前夜には打ち上げ花火が行われ、地元住民や観光客で賑わいます。

手筒花火の起源と特色

手筒花火は、吉田神社に奉納される特別な花火であり、町内会の人々が一本一本手作りし、神輿の代わりに担いで練り歩きます。この勇壮な花火の奉納は、見る者に強い感動を与える豊橋独自の伝統文化です。火の粉を浴びながら力強く掲げられる筒から噴き出す火柱は、まさに勇壮華麗の一言に尽きます。

吉田神社の境内

境内の見どころ

境内社

吉田神社の境内には以下のような社もあり、それぞれの祭神が祀られています。

文化財と保存

吉田神社では、『吉田神社旧式祭礼図絵馬』が豊橋市の指定民俗文化財として保存されています。この絵馬には、かつての祭礼の様子が詳細に描かれており、当時の地域文化や信仰心を今に伝える貴重な史料です。

まとめ

吉田神社は、単なる信仰の場にとどまらず、豊橋の歴史と文化の中心として重要な役割を果たしてきました。神社の歴史をひもとくことで、古代から続く人々の祈りや祭りの熱気、そして地域への深い愛情を感じ取ることができます。四季折々の自然に包まれた境内を訪れ、手筒花火や祇園祭の勇壮さを体感することで、より深く日本の伝統に触れることができるでしょう。

Information

名称
吉田神社(豊橋市)
(よしだ じんじゃ)

豊橋・渥美半島

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