城宝寺は、愛知県田原市田原町稗田に所在する浄土宗の寺院で、山号を弁天山と称します。田原城下町の南端に位置し、城下防衛の役割も担ったとされる寺院群の一つとして、歴史的にも重要な場所です。東海七福神のひとつである弁財天を祀り、信仰と文化、そして歴史が重層的に息づく寺として多くの人々を惹きつけています。
とりわけ城宝寺は、江戸時代後期に活躍した思想家・画家・政治家である渡辺崋山の菩提寺として知られています。幕末の先覚者として、また卓越した画才を持つ文人として名を残した崋山の足跡を今に伝える寺として、城宝寺は田原の歴史と文化を語る上で欠かすことのできない存在です。
城宝寺は、豊橋鉄道渥美線三河田原駅からほど近い場所に位置し、観光の拠点としても訪れやすい立地にあります。田原城城下町の南端には四つの寺院が並び、城宝寺はその中で最も東側に位置しています。これらの寺院は、いざという時には兵を駐屯させ、外敵の侵入を防ぐ防衛拠点としての役割も果たしていたと考えられています。
城宝寺の寺伝によれば、その創建は弘仁2年(811)、空海(弘法大師)によるものと伝えられています。もとは高杉山幸徳寺と称し、長い年月を経て地域の信仰を集めてきました。
室町時代の応永2年(1395)には、讃誉空山上人によって浄土宗へと改宗され、応永5年(1398)に再興されます。さらに戦国時代の永禄7年(1564)、徳川家康がこの地に深く関わった時代に、城の鎮護を祈る寺として「城宝寺」と改称されました。この寺名には、城を守る宝のような存在でありたいという願いが込められているといわれています。
城宝寺が特に名高い理由の一つが、渡辺崋山の墓所が境内にあることです。崋山は田原藩家老として藩政改革に尽力し、また蘭学者や文人たちと交流しながら、日本の将来を見据えた思想を持っていました。しかし、その先進的な考えゆえに幕府から危険視され、蛮社の獄に連座して失脚、最期は自刃という悲劇的な結末を迎えます。
境内には、崋山が26歳のときに詠んだ句、 「見よや春 大地も享す 地虫さへ」 を刻んだ句碑が立っています。この一句には、改革案が退けられた若き崋山の無念と、それでもなお未来を信じようとする心情が込められており、訪れる人の胸に深く響きます。
城宝寺観光の最大の見どころが、本堂奥にある崋山霊牌堂です。ここには、近代日本画壇を代表する画家松林桂月をはじめ、日本有数の画家・書家たちが寄進した、色鮮やかな天井画が描かれています。
天井いっぱいに広がる花々の絵は、まるで咲き誇る花園を見上げているかのような華やかさを持ち、静謐な堂内に生命の息吹を感じさせます。宗教空間でありながら、美術館に匹敵する芸術性を備えたこの天井画は、城宝寺を訪れたならぜひ拝観したい名品です。なお、拝観の際は事前に寺務所へ一声かけ、本堂を通って霊牌堂へ向かいます。
山門の右手には、城宝寺古墳と呼ばれる円墳があり、渥美半島最大級の古墳として知られています。6世紀末に築かれた横穴式石室を持ち、現在は愛知県の史跡に指定されています。
石室は全長約8.7メートルにも及び、巨大な磯石を用いて築かれています。内部への立ち入りはできませんが、入口の柵越しに石室の奥行きと迫力を感じることができます。古代の首長が葬られていたとされ、さらに弘法大師が修行したという伝承も残るなど、信仰と歴史が交錯する神秘的な場所です。
城宝寺の境内には弁財天が祀られており、その傍らには一本の松が立っています。この松には、徳川家康が戦乱を逃れて田原にたどり着いた際、舟をつないだという伝説が残されています。こうした逸話は、城宝寺が単なる寺院にとどまらず、歴史の舞台の一部であったことを物語っています。
城宝寺は、歴史・思想・芸術・信仰が一体となった、田原市屈指の観光スポットです。渡辺崋山という人物の生涯に思いを馳せながら、天井画の美に心を奪われ、古墳の前で悠久の時を感じる――その体験は、ここでしか味わえない特別なものとなるでしょう。
静かな境内を歩きながら、田原が生んだ幕末の先覚者の精神に触れるひとときは、観光でありながら、深い学びと感動を与えてくれます。
所在地:愛知県田原市田原町稗田
アクセス:豊橋鉄道渥美線「三河田原駅」下車、徒歩圏内