池ノ原公園は、愛知県田原市田原町池ノ原に位置する歴史的な史跡です。この地には、江戸時代後期の画家・蘭学者であり、田原藩家老を務めた渡辺崋山が、晩年に罪人として自害に至るまでの数年間を過ごした住居が復元されています。
現在見ることのできる住居は、復元されたものではありますが、1830年代に建築された当時の姿をできる限り忠実に再現しています。
この住居に最初に住んだのは、天保5年(1834年)、渡辺崋山の招聘により田原藩に迎えられた豊後・日田出身の農学者大蔵永常でした。彼は周囲の土地を実験用農場とし、アブラナやサトウキビなどの商品作物を栽培し、田原藩の新たな収入源を築こうと試みました。そのため、この屋敷は当時「御産物屋敷」とも呼ばれていました。しかし、残念ながら期待された成果は十分に得られなかったようです。
天保10年(1839年)、江戸で起こった蛮社の獄によって、渡辺崋山は捕らえられ、田原で蟄居生活を送ることになりました。崋山の失脚に伴い、彼と親しかった大蔵永常も田原藩での地位を失い、この住居を去ることとなりました。その後、渡辺崋山一家がこの住居に移り住むことになります。
蟄居中、崋山は絵を描くなどして日々を過ごしていましたが、2年後の天保12年(1841年)、住居北側の小屋(かつて永常がサトウキビ醸造に使用していた建物)において切腹し、命を絶ちました。崋山の遺体は幕府の役人によって検視され、田原城下の城宝寺に葬られました。
その後、渡辺崋山の存在は一時世間から忘れ去られましたが、1880年代に入ると維新の先覚者として高野長英らとともに再評価されました。修身教育の教材にも取り上げられたことで、広く日本人に知られる存在となりました。この影響もあり、1909年には東郷平八郎による揮毫の碑が住居東側に建立されました。
住居自体は一時期失われましたが、昭和30年(1955年)5月、地元有志たちの共同出資により復元されました。復元にあたっては、かつて取り壊しに携わった大工の記憶が参考にされました。この時代、豊かとは言えない中で有志たちによる復元事業が実現したことは、地元の人々が渡辺崋山に深い敬愛の念を抱いていた証と言えるでしょう。
また、復元と同時に公園内には渡辺崋山の坐像も設置され、平成4年(1992年)6月には、当時の田原町によって史跡に指定されました。
現在の池ノ原公園は、緑豊かな林に囲まれ、静寂な空間の中に渡辺崋山の旧宅、銅像、そして東郷平八郎の顕彰碑が設置されています。江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域であり、当時の屋敷そのものは現存していませんが、細く曲がりくねった道や椿の生け垣に、往時の面影を感じることができます。
近年、この一帯は整備が進み、池ノ原公園南側には池ノ原会館が建設されました。ここでは、落ち着いた和室で抹茶を楽しむことができ、訪れる人々に安らぎのひとときを提供しています。
大蔵永常(おおくら ながつね)は、江戸時代を代表する農学者の一人であり、宮崎安貞・佐藤信淵と並んで「江戸時代三大農学者」と称されます。通称は亀太郎・徳兵衛・喜内、字は猛純、号は亀翁・愛知園主人・黄葉園主人などを名乗りました。
田原藩在住時代には「日田喜太夫」と称し、浜松藩の興産方としても活動しました。その生涯には「金無し大先生」とのあだ名が付いたほど、質素な暮らしぶりが知られています。
1768年(明和5年)、豊後国日田郡(現在の大分県日田市)で、製蝋問屋「鍋屋」を営む家に生まれました。もともとは武士の家系に連なる血筋でしたが、家業を継ぎ、農業の道へと進みます。
天明の大飢饉をきっかけに、現金収入を生み出す作物の必要性を痛感し、大阪や江戸を巡って各地の農業事情を研究しました。その結果、穀類の増産や特用作物の多角経営の必要性を説くようになり、農業改革に努めました。
寛政8年(1796年)、29歳で長崎から大阪へ渡り、苗木商を営む傍ら、初の著書『農家益』を執筆。その後も多くの農業書を刊行し、農業技術の普及に尽力しました。
1834年(天保5年)、渡辺崋山の推薦で田原藩に迎えられ、産物御用掛として仕官しました。しかし、蛮社の獄により崋山が失脚すると、自身も田原を追われることとなりました。その後、浜松藩に仕官しましたが、晩年は江戸に移り、詳細は不明のままとなっています。
死後の1917年(大正6年)、正五位が追贈されています。
渡辺崋山(わたなべ かざん)は、江戸時代後期の武士であり、画家、蘭学者としても名高い人物です。通称は登(のぼり)、諱は定静(さだやす)であり、号としては崋山(華山から改めた)を用いました。
蛮社の獄は、天保10年(1839年)に発生した言論弾圧事件です。高野長英や渡辺崋山らが、モリソン号事件を巡って幕府の鎖国政策を批判したことが原因で、逮捕・処罰されました。
当時、江戸では蘭学が盛んになり、新たな知識を求める風潮が高まっていました。蘭学者たちは、医療以外にも幅広い分野で知識を交換し合い、渡辺崋山はその中心的な存在でした。しかし、幕府は朱子学以外を認めない体制であったため、蘭学者たちは警戒の目を向けられていました。
鳥居耀蔵らによる密告により、蛮社の獄が引き起こされ、多くの蘭学者が弾圧されました。渡辺崋山もその犠牲となり、蟄居生活を余儀なくされ、最終的には池ノ原の地で自害するに至ったのです。