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泉龍院(新城市)

(せんりゅういん)

泉龍院は、愛知県新城市に所在する曹洞宗の由緒ある寺院です。寺の山号は「大洞山(だいどうざん)」と称し、本尊には釈迦如来をお祀りしております。また、「三河白寿観音霊場」の第12番札所としても知られています。

泉龍院は長い歴史と深い信仰に支えられてきた名刹であり、徳川家や地元の豪族であった菅沼氏との関わりも深く、歴史的・文化的価値の高い寺院として親しまれています。

境内と特徴

本尊と伽藍

泉龍院の本尊は釈迦如来です。寺内には開山堂や東照軒などが建ち並び、特に東照軒では徳川家康の神号である「東照大権現」が祀られ、徳川将軍家代々の位牌も安置されています。厳かな雰囲気の漂う境内は、禅の精神に満ちた静謐な空間です。

菅沼氏の墓碑

また、かつて野田城を治めた豪族・菅沼氏の歴代の墓碑が境内に整然と並んでいます。定則、定村、定盈、定芳といった当主たちが眠るこの地は、地域の歴史を今に伝える貴重な文化遺産でもあります。

泉龍院の歴史

創建と開山

泉龍院は寛正元年(1460年)、聞庵道見(もんなんどうけん)禅師がこの地に入山したことに始まります。彼はこの地の螺貝にまつわる伝説や自然の神秘に心を打たれ、草庵を構えて坐禅に励み、禅の教えを広めました。

その後、文明2年(1470年)には岡崎の龍渓院2世であった盧岳洞都禅師を招いて正式な開山とし、寺号を「泉龍院」としました。後に山号を「大洞山」と改めています。

発展と輪番制

泉龍院はその後、布教活動に熱心に取り組んだ結果、7世の代には全国に270余の門葉寺院を持つまでに発展しました。また、住職には輪番制が採用され、5世光国派、6世希聲派、7世琴室派の三派から選ばれた末寺の僧侶が交代で務める仕組みがありました。

しかし明治維新の改革により輪番制は廃止され、住職は独住制となり、現在では独住5世、通算180代目の住職が法灯を継いでいます。

開創にまつわる伝承

泉龍院の開創には興味深い伝承があります。500年前、聞庵道見禅師が「吉水の洞窟」で坐禅していた際、山が震動し、洞窟から大きな螺貝が吹き出しました。また、この地域が「螺貝山」と呼ばれていたことから、法華経に登場する大法螺貝との縁を感じた禅師は、この地を仏道の地と見定めました。

その後、禅師は沼を埋めて草庵を建て、沼の一部を「龍神池」と名付け、大蛇の住処としました。また、裏山の湧水は守護神として「正意大明神」として祀られています。

菅沼氏との関係

野田城主 菅沼定則の帰依

天文8年(1539年)、野田城主・菅沼定則は泉龍院の伽藍の修復を支援しました。その後、彼は住職・泰年全継に帰依し「不春居士」の号を授けられました。さらに翌年には寺へ梵鐘を寄進し、道場を建立しました。

定則は病に倒れると、再び泉龍院にて過ごし、天文15年(1546年)に亡くなった際には、3人の導師による丁重な葬儀が行われました。

菅沼定盈の支援

元亀4年(1573年)、武田信玄の野田城攻撃により泉龍院の伽藍は焼失しましたが、3代目城主・菅沼定盈が大檀那となって再建に尽力しました。この際、彼は本尊の釈迦牟尼仏を寄進し、戦死した父・定村の菩提を弔いました。

泉龍院の法系と本寺

禅の法統

泉龍院は、道元禅師(1200年~1253年)に始まる曹洞宗の正統な法脈を受け継いでいます。道元から孤雲懐奘、徹通義介、瑩山紹瑾といった名僧の系譜を経て、盧岳洞都、聞庵道見と続いています。

本山・本寺

泉龍院の本山は以下の通りです。

また本寺には静岡県の「橘谷山 大洞院」、愛知県の「大澤山 龍渓院」などがあり、宗門の要所として位置付けられています。

末寺と宗派構成

輪住格を有する末寺

泉龍院の特徴のひとつとして、過去に輪住制が敷かれていたことが挙げられます。以下のような派閥と末寺が存在しました。

光国派
希聲派
琴室派

その他の末寺

泉龍院には多数の小末寺があり、愛知県を中心にその教えは広く浸透しています。地域に根ざした禅の拠点として、現在も多くの信徒に親しまれています。

おわりに

泉龍院は、新城市の自然豊かな地にあって、禅の伝統と歴史を今に伝える貴重な寺院です。長い歴史の中で多くの人々に支えられ、徳川家や菅沼氏との関係の中で発展してきました。訪れる人々に静寂と安らぎを与えるこの寺は、今後も地域の精神的な拠点として大切に守られていくことでしょう。

Information

名称
泉龍院(新城市)
(せんりゅういん)

豊橋・渥美半島

愛知県