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悟真寺(豊橋市)

(ごしんじ)

豊橋市に佇む歴史ある浄土宗の名刹

悟真寺は、愛知県豊橋市関屋町に所在する浄土宗の仏教寺院で、孤峰山 浄業院という山号と院号を持っています。本尊には、恵心僧都源信作と伝わる阿弥陀三尊立像を安置しており、地元でも長く親しまれてきた格式ある寺院です。また、豊橋市内の龍拈寺(りゅうねんじ)、神宮寺(じんぐうじ)とともに「吉田三ヶ寺」の一つとして数えられる名刹でもあります。

悟真寺の歴史

南北朝時代の創建

悟真寺の創建は、南北朝時代の正平21年(1366年)に遡ります。開山は、法然上人の教えを受け継ぐ浄土宗藤田派の第4代唱名の高弟である善忠寂翁とされています。彼は、称名念仏の教えを広めるため、関東から東海道をたどって三河の今橋(現在の豊橋市今橋町)へと至りました。その地で不思議な霊験を感じ、寺院を建立したのが始まりと伝えられています。創建当初の寺は、後に吉田城の三ノ丸の地に組み込まれました。

勅願寺としての格式

善忠寂翁は京の都へも上洛し、当時の天皇であった後光厳天皇より勅願寺としての綸旨を授かるとともに、60貫の寺領を賜りました。このことにより、悟真寺は勅願寺として高い格式を得ることになります。

豊臣秀吉による移転と徳川家との関係

天正18年(1590年)、関白豊臣秀吉の命を受けて、三河吉田城に入城した池田照政(後の池田輝政)が、城郭の整備を行う過程で悟真寺を現在の関屋町へと移転させました。これにより旧地は吉田城の一部となります。文禄3年(1594年)には、池田輝政が徳川家康の娘である督姫と結婚するなど、徳川家との縁も深まります。

徳川家からの庇護と寺院の隆盛

慶長7年(1602年)には、徳川家康から朱印地として80石を与えられました。また、徳川家が江戸幕府を開くに際して、朝廷より征夷大将軍に任命されるなど時代が大きく動く中、悟真寺もその存在感を高めていきました。

悟真寺は、吉田三ヶ寺の一つとして、曹洞宗の龍拈寺天台宗の神宮寺とともに三河吉田藩を代表する寺院となり、将軍家の宿泊所としても利用されました。さらに、朝鮮通信使が来日した際には宿舎にもなり、1719年に訪れた申維韓の『海游録』には、「孤峰山の悟真寺に館す。寺は、壮麗にして方塘があり、花卉が鬱然としている。」との記述が残されています。

後水尾天皇との逸話

元和年間には、悟真寺から納豆(現在の糸引き納豆とは異なる形状のもの)を後水尾天皇に献上したことがあり、その際には天皇から御製(みうた)として、

「ひく汐に わたりかかれば 三河なる 浜名は落ちて ここは八橋」

との和歌を賜りました。

近代から現代への歩み

明治・大正時代の役割

慶応4年(1868年)には、悟真寺の境内に三河裁判所が置かれました。この裁判所は、三河・遠江・駿河の旧幕府直轄地を統治する拠点として使用されました。総督には平松甲斐権介時厚が任命されています。

明治2年(1869年)には、当時の三河吉田藩が伊予吉田藩(愛媛県)との混同を避けるため、政府より改名を命じられ、「豊橋」という名称が採用されました。これにより、現在の豊橋市の名称の由来にも悟真寺が関わっていることが分かります。

また、明治11年(1878年)には、明治天皇が行幸され、その際には本堂が行在所として使用されました。境内には今もその聖蹟を示す看板が立てられています。

戦争と再建

日露戦争の際には、俘虜収容所としても利用されました。さらに、昭和20年(1945年)6月の豊橋空襲によって、寺は一度全焼するという大きな被害を受けました。しかし、幸運にも本尊である源信作の阿弥陀三尊立像は、戦時中に豊川市赤坂町の長福寺に疎開されていたため、無事でした。

戦後、悟真寺は本堂をはじめとする主要施設を再建し、現在では、学校法人悟真寺幼稚園(旧・月影保育園)も運営するなど、地域に根ざした活動を行っています。

所在地とアクセス

所在地

愛知県豊橋市関屋町212番地

アクセス

豊橋鉄道東田本線「札木停留場」から南西方面へ徒歩圏内に位置しています。

Information

名称
悟真寺(豊橋市)
(ごしんじ)

豊橋・渥美半島

愛知県