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楽田城

(がくでんじょう)

楽田城は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)に位置していた日本の城です。この城は戦国時代から安土桃山時代にかけて重要な役割を果たしましたが、現在ではほとんど遺構が残されていません。それでも、歴史的価値が高く、特に日本における「天守」という建築物の起源に関連する城として知られています。

城の立地と特徴

濃尾平野の要所

楽田城は濃尾平野の東部に位置し、犬山の南、小牧の北に広がる地域に築かれました。この地域は、尾張の中心地と信濃国木曽を結ぶ木曽街道が通る交通の要所でした。楽田城は平城として建設され、歴史文献によると、「天守」に相当する建物が建てられた最古の城とされています。

楽田城の歴史

築城と初期の歴史

永正年間(1504年~1521年)に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝えられています。その後、楽田織田氏の居城となりました。しかし、織田信長の一族である織田信清が犬山城主として勢力を拡大すると、永禄初年に楽田城は信清に攻略され、信清の出城となりました。

信長時代とその後

永禄5年(1562年)、織田信清が織田信長に反旗を翻したため、信長の家臣である坂井政尚が楽田城の守備を担当しました。しかし、坂井政尚とその息子は戦死し、その後は梶川高盛が城主となりました。

小牧・長久手の戦いでは、楽田城は前線基地となり、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が陣所として使用しました。この戦いの後、楽田城は廃城となりました。

楽田城の「天守」の起源

日本最古の天守の記録

『遺老物語』によると、永禄元年(1558年)に楽田城では高さ5メートルほどの壇を築き、その上に二階建ての櫓を建設しました。この櫓は「殿守(でんしゅ)」と呼ばれ、神仏を祀る場所として使用されました。殿守は「天守」の語源とされ、日本における高層建築の起源の一つと見なされています。

織田信長はその後、小牧山城や岐阜城、さらに安土城で天守に相当する建物を築きました。このことから、天守という建築様式や名称が尾張地方から広がったと考える研究者もいます。

遺構と現在の状況

失われた遺構

大正時代までは楽田城の遺構がある程度残っていましたが、その後、犬山市立楽田小学校の用地となり、徐々に消失しました。昭和55年(1980年)には天守台跡も運動場として整備され、完全に撤去されています。

現存する遺物

楽田城の裏門が東方にある常福寺に移築され、山門として利用されているとの伝承があります。ただし、これが本当に楽田城の裏門であるかは定かではありません。また、天守台跡の一部や土塁がわずかに残っています。

アクセス

最寄り駅からのアクセス

楽田城跡へは、名鉄小牧線「楽田駅」から徒歩約5分でアクセスできます。歴史を感じる散策を楽しむには絶好の場所です。

関連情報

関連する城郭や歴史

楽田城は犬山城や小牧山城と深く関連しており、織田信長やその一族の歴史を知る上で重要な役割を果たしています。また、日本の城郭建築の発展史を語る上でも欠かせない存在です。

Information

名称
楽田城
(がくでんじょう)

犬山・瀬戸

愛知県