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小牧山城

(こまきやまじょう)

小牧山城は、織田信長によって築かれた日本の城で、美濃攻めの拠点として利用されました。後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城としても知られています。この城は濃尾平野の独立峰である小牧山に築かれ、戦国時代の歴史に深く関わっています。

築城の背景と構造

小牧山城は、永禄6年(1563年)に信長が丹羽長秀を奉行として築城しました。標高86mの山頂に本丸を設け、その周囲を三重の石垣で防御。さらに山腹には数多くの曲輪(くるわ)が築かれました。

平成17年度(2005年)の調査で、現在の大手道の下から永禄期の大手道が発見されました。この道は安土城の大手道と構造が似ており、小牧山城が安土城の先駆けであったことが推測されています。

城郭の防御構造

山の周囲は土塁と堀で囲まれ、防衛用の虎口(こぐち)も設けられていました。南山麓から頂上への大手道は、途中で折れ曲がる構造となり、防御力を高める工夫が施されていました。

小牧山城の役割と廃城

織田信長は桶狭間の戦い後、美濃国攻略のため本拠地を清洲城から小牧山城へと移しました。しかし、美濃国の斎藤氏を攻略した永禄10年(1567年)には、稲葉山城へと拠点を移したため、小牧山城は約4年で廃城となりました。

小牧・長久手の戦いでの役割

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、家康が本陣を置き、信長が築いた城跡を改修し強固な陣地を築きました。この戦いで徳川軍が勝利を収めたことが、後の関ケ原の戦いへの布石となりました。

小牧・長久手の戦いとは

「小牧・長久手の戦い」は天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いです。この戦いは、尾張北部の小牧山城や犬山城を中心に繰り広げられました。また、尾張南部や美濃地方など広範囲で戦闘が発生し、全国的な戦役となりました。

戦いの背景

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康が武田勝頼を討ち、甲州征伐を成功させました。しかし同年6月、信長は家臣の明智光秀によって討たれる「本能寺の変」が発生します。その後、信長の家臣であった羽柴秀吉が光秀を討ち、織田家の実権を掌握しました。

一方、徳川家康は武田氏の遺領である甲斐や信濃を支配下に置き、織田信雄と同盟を結びました。しかし、信雄と秀吉の関係が悪化し、天正12年に小牧・長久手の戦いが勃発しました。

犬山城の占拠

戦いの序盤、家康は清洲城に到着しますが、織田軍に与していた池田恒興が羽柴軍に寝返り、犬山城を占拠しました。この事態を受け、家康は小牧山城に駆けつけました。

羽黒の戦い

羽黒(現在の犬山市)では、森長可が池田勢とともに進軍。しかし、徳川軍が奇襲を仕掛け、森勢は敗北しました。

小牧山城における攻防

小牧山城を拠点とした徳川家康は、周囲に砦や土塁を築き、防備を固めました。一方、羽柴秀吉は大坂から進軍し、岐阜を経て犬山に到着しました。両軍は対陣状態となり、砦の修築や土塁の構築が行われました。

岩崎城の戦い

岩崎城では、羽柴軍が攻城戦を仕掛けましたが、徳川軍が背後から奇襲をかけ、羽柴軍は大きな被害を受けました。この戦いは「岩崎城の戦い」として知られています。

白山林の戦い

さらに、羽柴秀次率いる軍勢は白山林で徳川軍に奇襲され、壊滅的な敗北を喫しました。

戦役の結末

小牧・長久手の戦いは激しい戦闘が続きましたが、最終的には秀吉が信雄と和睦を結びました。この和睦により、戦役は終結しましたが、戦いを通じて徳川家康の戦略眼と軍事力が改めて示されました。

現在の小牧山城

現在の小牧山城は歴史公園として整備され、天守閣からは美しい景色を楽しむことができます。小牧山城跡は国の史跡に指定されています。山頂には「小牧城」と呼ばれる小牧市歴史資料館が昭和42年(1967年)に建設され、城郭や遺構の一部が保存されています。また平成29年(2017年)には「続日本100名城」に選定されました。

観光施設と活動

平成31年(2019年)には「れきしるこまき 小牧山城史跡情報館」が開館し、歴史や文化について学べる施設となっています。遺構の保護活動も行われており、歴史的価値が見直されています。

小牧山城は、信長の築城技術や戦国時代の戦術を学ぶ上で重要な史跡です。訪れることで、戦国時代の息吹を感じることができるでしょう。

Information

名称
小牧山城
(こまきやまじょう)

犬山・瀬戸

愛知県