正覚寺は、愛知県丹羽郡扶桑町に所在する臨済宗妙心寺派の仏教寺院です。長い歴史の中で幾度も困難を乗り越えながら、地域の信仰と文化を守り続けてきた由緒ある寺院として知られています。現在では、静かな境内と貴重な文化財を有することから、歴史や仏教文化に関心を持つ観光客にも注目されています。
正覚寺の境内には、1959年(昭和34年)に再建された本堂を中心に、庫裏や経堂が整然と配置されています。決して大規模な寺院ではありませんが、落ち着いた雰囲気に包まれ、参拝者が心静かに手を合わせることのできる空間が広がっています。
また、境内の一角には地区の集会場が設けられており、正覚寺が宗教施設としてだけでなく、地域コミュニティの拠点としても大切にされてきたことがうかがえます。
正覚寺の創立年代は詳らかではありませんが、寺に伝わる古記録によれば、本尊である薬師如来像は、742年(天平14年)に聖武天皇の勅命によって高僧・行基が自ら彫刻したものとされています。この伝承から、奈良時代にはすでに信仰の拠点として存在していた可能性が考えられています。
かつての正覚寺は真言宗の大寺院であり、尾北地域において重要な宗教的役割を果たしていました。しかし、度重なる火災により堂宇や寺宝を失い、次第に衰退していきました。
1509年(永正6年)、臨済宗の高僧である友峰宗益によって再興され、宗派を臨済宗に改めました。この時の再建をもって、友峰宗益は正覚寺の中興の開山とされています。
正覚寺は戦国時代の動乱にも翻弄されました。1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いでは、周辺一帯が戦火に包まれ、正覚寺も例外ではありませんでした。伽藍をはじめ、代々伝えられてきた宝器や文書類はことごとく焼失し、寺は一時的に廃寺同然の状態に陥ります。
その後、境内は大きく縮小されましたが、地域住民の信仰によって寺の灯は守られ続けました。そして1959年(昭和34年)2月、現在の本堂が再建され、正覚寺は再び地域の精神的な拠り所としての役割を取り戻しました。
正覚寺は、仏教寺院でありながら、尾北地方におけるキリシタン殉教地の一つとしても知られています。江戸時代初期、キリスト教が禁じられていた時代に、この地で命を落とした人々がいたと伝えられています。
この事実は、正覚寺が単なる宗教施設にとどまらず、日本の宗教史や信仰の多様性を考えるうえで重要な場所であることを示しています。
正覚寺を代表する文化財が、1974年(昭和49年)4月5日に扶桑町指定有形文化財となった十二神将像です。これらは本尊・薬師如来の両脇に、守護神として12体が一堂に安置されています。
作者は、江戸時代前期に活躍した仏師円空で、制作年代は寛文末から延宝初期(17世紀後半)と推定されています。12体すべてが直径約70cmの丸木を縦に割った同一の木材から彫り出されており、円空仏の中でも初期の作例として高い評価を受けています。
像高は63.4cmから76.5cmまであり、それぞれの額には干支が刻まれています。円空仏は各地に残されていますが、十二神将がこれほど揃って残る例は珍しく、学術的にも貴重な存在です。
もう一つの重要文化財が、1988年(昭和63年)1月25日に指定された大般若波羅密多経です。これは1782年(天明2年)から1794年(寛政6年)まで、実に13年の歳月をかけて、元竜泉寺和尚是孝によって書写されたものです。
経典は和装折本で、漆塗りの桐箱12箱に分けて収められています。巻末には法名や援助者、費用などが記されており、当時の信仰や地域社会の様子を知るうえで重要な史料となっています。
正覚寺は、派手さはありませんが、長い歴史の重みと静かな祈りの空気を感じられる場所です。円空仏や経典といった貴重な文化財、戦国時代やキリシタン史に関わる背景など、多層的な歴史を体感できる寺院として、扶桑町観光の中でも見逃せない存在といえるでしょう。
扶桑町を訪れた際には、正覚寺に足を運び、地域の歴史と人々の信仰に思いを馳せながら、静かなひとときを過ごしてみてはいかがでしょうか。