蓮泉寺は、愛知県安城市にある真宗大谷派の寺院で、山号を石川山と称します。三河石川氏の菩提寺として知られ、歴史的な由緒を持つ寺院です。境内には、歴史上重要な人物の墓所もあり、地域の歴史を知る上で貴重な場所となっています。
蓮泉寺は安城市に位置し、真宗大谷派に属する寺院です。かつて三河国の有力な武士であった石川氏と深い関わりを持ち、その菩提寺として長い歴史を歩んできました。寺院の本堂は文正年間(1466年~1467年)に建立され、その後、寛政11年(1799年)に一部古材を使用して再建されています。
蓮泉寺の創建は明応2年(1493年)と伝えられています。石川政康の第四子である康頼が仏門に入り、明了と称して開山しました。本尊には、実如(浄土真宗本願寺派第9代門主)の裏書がある方便法身阿弥陀如来像が安置されています。
境内の西側には、三河石川氏の祖である石川政康の墓があり、歴史好きには興味深い場所です。また、明治時代に起きた「大浜騒動」に関連する護法有志の墓もあり、歴史の一端を感じることができます。
大浜騒動は、1871年(明治4年)に三河国碧海郡で発生した暴動です。この騒動は、明治政府の廃仏毀釈政策に反対する運動の一環であり、真宗僧侶と門徒たちが政府の改革に抗議した事件でした。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、仏教を廃し、神道を国家の宗教として確立する政策のことです。明治政府は、神仏分離を推進し、多くの寺院を統廃合しようとしました。これにより、特に浄土真宗の寺院は存続の危機に直面しました。
当時、三河国の一部は菊間藩の支配下にあり、明治3年(1870年)には菊間藩の役人が、寺院の統廃合を進める方針を示しました。具体的には、以下のような施策が提案されました。
この方針に対し、真宗大谷派の僧侶たちは強く反発しました。彼らにとって檀家制度は生計の基盤であり、寺院の存続に関わる重大な問題だったからです。
寺院統廃合の方針が発表されたことで、真宗大谷派の三河護法会は危機感を募らせました。彼らは協議を重ねた結果、まずは統廃合に賛同した西方寺や光輪寺を詰問するために行動を起こしました。
1871年3月8日、碧海郡矢作村に約100名の真宗僧侶が集まり、寺院の存続を求める会合が開かれました。しかし、問題となっていた2つの寺院(西方寺と光輪寺)の僧侶が出席しなかったため、護法会の代表である石川台嶺を中心とする37名の僧侶が、直接詰問に向かいました。
護法会の僧侶たちが移動する途中、門徒たちも次々と合流し、その数は増えていきました。さらに、一部の門徒が竹槍を持ち始め、騒動の雰囲気が高まっていきました。
同年3月9日、碧海郡鷲塚村に到着した護法会側は、藩の役人と交渉を行いました。しかし、交渉はまとまらず、門徒たちの不満が爆発。彼らは役人の滞在する庄屋宅に投石を始めました。役人たちは庄屋宅を脱出しようとしましたが、暴徒化した門徒たちに追跡され、ついには役人1名が殺害される事態となりました。
事件の報を受けた菊間藩は、藩兵と農兵を派遣し、隣接する西尾藩や重原藩の応援も得て鎮圧に乗り出しました。こうして大浜騒動は終息しましたが、多くの僧侶や門徒が逮捕されました。
騒動の主導者とされた石川台嶺は斬罪に処せられ、その他、多数の僧侶や門徒が罪に問われました。その後、明治政府は寺院の統廃合政策を一部改めましたが、最終的には多くの寺院が廃止されました。
蓮泉寺は、三河石川氏の菩提寺としての歴史だけでなく、大浜騒動にも関わりを持つ寺院です。この騒動は、明治政府の宗教政策に対する民衆の抵抗を象徴する出来事であり、廃仏毀釈の時代の厳しさを物語っています。
現在も蓮泉寺の境内には、大浜騒動で処刑された護法有志の墓が残されており、歴史を学ぶ上で貴重な史跡となっています。訪れる際は、この地が持つ深い歴史に思いを馳せながら散策してみてはいかがでしょうか。