尾崎士郎記念館は、愛知県西尾市吉良町荻原大道通に位置する文学館であり、小説家・尾崎士郎の業績を顕彰するために設立された施設です。西尾市立吉良図書館に隣接しており、文化的な学びの場として、地域住民や文学愛好家に親しまれています。
館内には、尾崎士郎のご遺族などから寄贈された貴重な資料が約4,000点展示されています。特に注目されるのが、1933年(昭和8年)から旧都新聞に連載された『人生劇場 青春篇』の挿絵原画や直筆原稿、愛用の万年筆などです。また、尾崎が執筆に用いた取材ノートや書簡、学校資料、舞台台本、映画資料など、多岐にわたる資料が揃っています。
記念館の開館に伴い、吉良町立図書館に設けられていた尾崎士郎記念室からは多数の蔵書が移管されました。しかし、見学者からの「書籍を借りたい」という声を受けて、2007年(平成19年)には図書館内に尾崎士郎特設コーナーが設置されました。そこには『逃避行』(1921年)や『尾崎士郎選集』(1941年)、『雷電』(1955〜1956年)など、現在では入手困難な約80冊が配架されています。
尾崎士郎の偉業を後世に伝えるべく、地元住民や尾崎の母校である早稲田大学の卒業生から記念館設立の要望が高まりました。こうした声を受けて、当時の吉良町(現在の西尾市)は独立した施設としての記念館を建設することを決定し、2002年(平成14年)9月に着工、同年12月14日に正式に開館しました。
記念館は鉄骨造の平屋建てで、延床面積は110平方メートル。民家を模した落ち着いた外観が特徴で、訪れる人々に温もりある雰囲気を与えます。
尾崎士郎(1898年~1964年)は、愛知県幡豆郡横須賀村宮前(現・西尾市吉良町上横須賀宮前)に生まれました。父の嘉三郎は郵便局を開業するなど、地域で信頼される人物でした。
幼少期に一度、横浜に移るものの健康や心情の問題で生家に戻ります。1910年に地元の小学校を卒業後、愛知県立第二中学校(現在の岡崎高等学校)へと進学し、そこで社会思想に触れるきっかけを得ました。
学生時代、友人宅で『共産党宣言』やピョートル・クロポトキンの著作などを読み漁り、社会主義思想に大きな影響を受けます。1915年には早稲田大学教授・永井柳太郎の目にとまる論文を発表したことで、早稲田大学への進学を志すようになります。
1916年に早稲田大学に進学した尾崎は、在学中に社会主義運動に関わりながら、文学の道を模索します。東洋経済新報社や売文社での勤務を経て、1921年には『獄中より』で小説家としての第一歩を踏み出します。
1923年には作家・宇野千代と結婚しますが、その後離婚。1930年に古賀清子と再婚しました。この頃から、尾崎の文筆活動はより本格化していきます。
1933年、都新聞より連載小説の依頼を受けて発表したのが、彼の代表作となる『人生劇場』です。この作品は読者に熱烈に支持され、1935年には書籍化され大ベストセラーとなり、1936年には映画化もされました。以降、尾崎は20年以上にわたりこの作品を書き続け、昭和文学の中でも異彩を放つ存在となりました。
1943年には日本文学報国会の常務理事に就任し、戦時体制を支援する作品も多く発表しましたが、戦後は一転して1948年に公職追放の処分を受けます。以降も執筆活動を続け、文芸評論誌『風報』の主宰などを行いました。
尾崎士郎記念館は、単に小説家の軌跡を追う展示施設ではなく、地元西尾市の誇るべき文化財産として、訪れる人々に文学の豊かさや歴史的背景を伝え続けています。また、記念館を訪れることで、尾崎が描いた『人生劇場』の背景となった三河地方の風土や人々の息遣いを感じることができます。
現在では貴重な絶版本を含む資料の数々が保存・展示されており、教育や研究の場としても貴重な役割を果たしています。尾崎士郎の功績を学び、次世代に語り継ぐことができる場として、尾崎士郎記念館は今後も大切にされるべき存在です。