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西福寺(西尾市)

(さいふくじ)

西福寺は、愛知県西尾市吉良町吉田桐杭27に位置する、浄土宗に属する由緒ある寺院です。山号は北星山(ほくせいざん)と称し、本尊には阿弥陀如来坐像が安置されています。境内には、かつて岡崎市の伊賀八幡宮にあった貴重な建造物である鐘楼が移築されており、これは愛知県指定有形文化財にも認定されています。

西福寺の歴史と変遷

鎌倉時代の創建と天台宗時代

西福寺の創建は古く、鎌倉時代中期の建長6年(1254年)にまでさかのぼります。この年、鎌倉幕府の執権・北条時頼が諸国を巡遊していた際に、当地に寺院を建立したのが始まりと伝えられています。当初は天台宗の寺院であり、堂塔伽藍を備えた立派な構えを有していたといいます。

兵火による焼失と再興

しかし、元弘元年(1331年)には戦火により全山が焼失するという不運に見舞われます。廃墟となった跡地に道全沙弥が草庵を結び、ひっそりと修行を続けていました。その後、名古屋の熱田正覚寺から訪れた高僧章久養玉上人がこの地に立ち寄り、道全の庵に逗留中に悟りを開いたことで、堂塔の再建が始まります。

浄土宗への改宗と「西福寺」の命名

再興された寺院は、天台宗から浄土宗へと宗派を改められ、文安元年(1444年)に正式に「西福寺」と命名されました。章久養玉上人は、修行中に草庵の上に輝く北斗七星に霊感を得たことから、山号として「北星山」の名を授けたと伝えられています。

伊賀八幡宮から移築された歴史的建造物

鐘楼の由来と特徴

西福寺の境内でひときわ目を引く建造物が、鐘楼です。この鐘楼は、元は徳川家三代将軍・家光により再建された、岡崎市の伊賀八幡宮のものでした。伊賀八幡宮の諸堂宇が再建されたのは寛永13年(1636年)とされており、鐘楼もその頃に建立されたものと考えられています。

鐘楼の構造は、桁行三間、梁間二間の袴腰付きで、建築としての価値が極めて高く、現在では愛知県指定有形文化財に指定されています。江戸時代前期の様式を色濃く残す貴重な文化財として、寺院の歴史と風格を今に伝えています。

神仏分離令と移築の経緯

明治時代に入ると、明治政府による神仏分離令が発令され、神社から仏教色の強い建物を排除する動きが広まりました。その影響で、伊賀八幡宮の鐘楼も撤去対象となり、明治4年(1871年)に西福寺へと移築されました。

移築当初、鐘楼は桧皮葺(ひわだぶき)という伝統的な屋根材を使用していましたが、西福寺へ移された際に桟瓦葺(さんがわらぶき)へと改められました。現在でも、当時の面影を残しながら、堅牢な構造と荘厳な姿で訪れる人々を魅了しています。

文化財としての価値と地域とのつながり

地域の歴史を伝える文化遺産

西福寺の鐘楼は、単なる宗教施設としての役割を超え、地域の歴史と文化を今に伝える貴重な遺産として大切にされています。徳川将軍家との関わりを物語る建築物としての価値も高く、また、明治時代の宗教政策によって移築されたという歴史的背景を持つ点でも、学術的・文化的な意義は非常に大きいと言えるでしょう。

訪れる人々を魅了する風格ある寺院

西尾市において、西福寺は地域に根ざした歴史と信仰の場であり続けています。落ち着いた佇まいの中に息づく古の気配、訪れる人々を優しく迎えてくれる本尊の阿弥陀如来坐像、そして風格ある鐘楼など、そのすべてが寺の深い歴史を物語っています。

四季折々の自然に包まれながら、歴史と文化に触れられる西福寺は、観光客だけでなく、地元の人々にとっても心の拠り所となっている場所です。

まとめ:歴史と文化を今に伝える西福寺

西福寺は、鎌倉時代の創建から幾多の変遷を経て、現在に至るまでその歴史を紡いできた寺院です。浄土宗への改宗や、伊賀八幡宮からの鐘楼の移築など、多くの興味深い出来事を経てきたその姿は、まさに時代の証人と言えるでしょう。文化財としての価値も高く、地域の誇りとして今も大切に守られています。

愛知県西尾市を訪れる際には、ぜひ西福寺に足を運び、その静かな空間の中で歴史と向き合ってみてはいかがでしょうか。きっと、心に残るひとときを過ごすことができるはずです。

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