寺津八幡社は、愛知県西尾市寺津町に鎮座する歴史ある神社です。源氏の流れを汲む大河内氏との深いつながりや、徳川家との関わりを持つ由緒正しい神社として知られています。また、江戸時代の国学者・渡辺政香が神職を務めたことでも有名で、文化的な遺産にも触れることができます。
寺津八幡社は旧社格では「県社」に列せられた由緒ある神社で、主祭神は応神天皇(誉田別尊)です。加えて、江戸時代の寛永9年(1632年)には東照宮(徳川家康)を合祀しています。社殿の構造には大社造りの特徴が見られ、本殿は流造、拝殿には高覧付きの回廊が備わっています。
寺津八幡社は大河内氏(大河内松平家)の創建によると伝えられており、特に初代・源顕綱が建久年間(1190〜1199年)にこの地に建立したとされています。以来、寺津の地は大河内氏の領地として代々続き、寺津城の築城や神社の再建などを通じて神社との関係を深めました。
神社の境内には「大河内氏発祥地」の石碑や、物理学者として知られる末裔・大河内正敏によって建立された「八幡宮」の碑が建てられています。また、扁額の「縣社八幡社」の文字は、徳川宗家第16代・徳川家達の揮毫によるものです。
この地は古くは「大川郷」と称され、幡豆郡八郷の一つとして開拓された地域で、「大川神社」とも呼ばれていた歴史があります。寺津八幡社の創建は鎌倉時代、源頼政の孫である源顕綱によるものとされています。以来、神社は大河内家の鎮守として信仰されてきました。
大河内家は代々神社の守護に努め、特に十代・大河内信政によって寺津城が築かれた際、神社も再興されました。また、五代の孫・源教剛は暦応2年(1339年)に「武運長久」と刻まれた鏡を奉納しており、西尾市指定文化財にもなっています。
江戸時代には、慶長3年(1680年)に徳川家康を祀る東照宮を再建、徳川家の守護神として崇められました。さらに三代将軍・徳川家光が朱印地として三十五石七斗を寄進しています。
明治時代には、明治5年に村社となり、明治41年には神饌幣帛料供進社に指定されました。その後、大正5年には郷社、大正10年には県社に昇格するなど、近代に至ってもその格式は高く保たれています。
1823年(文政6年)、渡辺政香が自身の著作や江戸・京都・大坂などから蒐集した膨大な史料を収蔵するために、神社境内に寺津八幡書庫を建てました。この書庫にあった書物は現在、西尾市の岩瀬文庫に「寺津八幡書庫旧蔵本」として保存されています。
渡辺政香(1776年~1840年)は、三河国幡豆郡寺津村出身の国学者で、寺津八幡社の神職を務めていました。彼は『参河志』『鴨の騒立』などの著作で知られ、特に地域の歴史記録に多大な貢献をしました。
政香は浜島錦城や伊勢の山口凹巷、足代弘訓らから和漢の学問を学び、京都の神祇伯・白川家にも入門するなど、当時の多くの学者・文人と交流を深めました。また、羽田八幡宮文庫を設立した羽田野敬雄とも親交があったことが記録されています。
代表作の『参河志』は全43巻に及び、1836年に完成しました。その後の一揆の記録として『鴨の騒立』や『寺津村旧記』を編纂するなど、地域の出来事を後世に伝える重要な資料となっています。
渡辺政香は「保宝葉園」「磯泊散人」「臥蝶園」「仙雲亭寿山」「同心軒」など、数多くの号を使い分けていました。その一つ「臥蝶」は、寺津八幡社とゆかり深い大河内氏の家紋に由来するものです。
一方で、彼の説には批判もあり、『和志取神社誌』ではその史料の信憑性に疑問が呈されています。『参河志』を含む著作を扱う際には、その内容を鵜呑みにせず、慎重に検証することが求められています。
寺津八幡社は、長い歴史と豊かな文化遺産を今に伝える神社です。大河内氏や徳川家との深いつながり、そして渡辺政香による学術的・文化的貢献によって、地域における信仰と知の中心として親しまれてきました。訪れる人々にとって、歴史の重みと敬意を感じられる場所であり、静かに過去と対話する時間を提供してくれることでしょう。